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塾長のひとこと

五十年後の三島由紀夫

 明日は、三島由紀夫、森田必勝の五十年目の命日である。私は、黙って通り過ぎるほどまだ呆けてはいない。現代の若者の中には、三島由紀夫に魅かれる人がいる。その要因を探ろうとしても、私には、分かるはずもない。多分、私とは、魅かれる意味合いが異質のものであるから。三島由紀夫については、様々な観点から論じられる。太宰治が今尚、人気があることと無縁ではないだろう。共通な部分があるとすれば、根の張ったコンプレックスであろう。しかし、それさえもほんの一面でしかない。論点は、どれをとっても点でしかなく、その一つ一つを結びつけても、線にしかならず、それを並べて連結しても、面になるだけである。三島由紀夫は、立体的であり、空間的であり、時空の中に存在する。勿論私にも理解できない。私は、天才でもなければ、三島由紀夫の文学的感性もなく、志を真に実行する程の勇気もなく、心技体も入り口でしかない。それでも、三島由紀夫に魅かれるのは、強烈な個性である。突出した個性である。ビジュアルでは、窺い知れない深さである。木を見て、森を見なければ、その壮大さが分からない。

 三島由紀夫は、「革命としての陽明学(諸君!昭和45年9月号)」を論じている。「陽明学はもともと支那に発した哲学であるが、以上にも述べたように日本の行動家の魂の中でいったん完全に濾過され日本化されて風土化を完成した哲学である。もし革命思想がよみがえるとすれば、このような日本人のメンタリティの奥底に重りをおろした思想から出発するより他はない。(諸君!平成元年7月号特別号、二十年の発言に掲載)

 日本人の知性の質がどんどん劣化している。物質を得るための道具としての知識を身につけることには熱心だが、人間の幅や奥行きを拡張するための教養を身につけることに興味を示さない。

 三島由紀夫は、必要かつ十分に、将来を見据え、日本の姿を見事に言い当てている。 「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代りに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。(果し得ていない約束―私の中の二十五年)

 年を重ねた三島由紀夫を識りたかったと思うのは私だけではないだろう。没後50年にどの様な三島由紀夫現象が起こるのか興味津々であったが、静寂のままである。とは言え、永遠に、忘れ去られる人物でないことは確かである。今回、森田必勝には触れなかったが、明日は、三島由紀夫とともに、写真を祀る。        塾長三木一之

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