対馬の記録(平成31年4月27日~30日)
はじめに
今回、3泊4日で対馬へ行ってきました。
対馬の個人的なイメージは、田園風景が多く、都会から少し離れた田舎のようなイメージでしたが、実際は、空港周辺は大型スーパーマーケット、コンビニ、飲食店、ドラッグストアが立ち並び、生活は何不自由なく送れるような場所でした。
少し外れるとのどかな田園風景が広がりますが、人手不足からか手付かずの田畑も多くみられました。また、宿泊先のホテル周辺は観光客で溢れ、宿泊客のほとんどが韓国の方でした。
4月28日
朝、元寇の戦いがあったとされる小茂田浜へ向かいました。
現在は海水浴場となっている小茂田浜の海は、とても澄んでいて、思わず飛び込みたくなるような美しさでした。
この場所で激しい戦いが繰り広げられたと思うと、ゾッとします。またいつの日か、目の前に敵船がずらっと並ぶ日が来るかもしれません。油断してはいけないと胸に刻みました。
午前は、対馬芳洲会会長の小島武博様に同行頂き、雨森芳洲先生・朝鮮通信使の地を案内して頂きました。
以酊庵の前に芳洲先生が語学を教えていた寺子屋が存在しました。現在は民家になっており、立ち入りはできませんでしたが、昔、同じような場所で習い事に精を出していた頃を思い出しました。
4月の講座で学んだ雨森芳洲先生がどのような場所で活躍されていたか、現地に赴くことで、生粋の儒学者であることが伝わりました。
午後は、白嶽山に向かいました。山頂までは2時間程度で登ることができ、山と海が広がる対馬を一望することができました。
今までの山頂からの景色は、下に雲が広がる景色、連なる山々が広がる景色が多かったのですが、山と海を同時に眺めることができるのは、滅多にお目にかかれないものです。また、運よく雲もあまりなく、韓国を目視することができました。肉眼で捉えることができるほど近くにあると思うと、身が引き締まりました。
白嶽山から下山後、姫神砲台跡地へ向かいました。砲台跡地は山の上にあります。日露戦争で使用された砲台の設置跡、弾薬の保管庫がそのまま残っていました。
4月29日
2日目は、金田城跡へと向かいました。城跡には、崖の下から積み上げられた石垣がそのまま残っていました。
人力で積み上げた石垣を見上げたときは、開いた口が塞がらないほどの驚きでした。
この日は天気がすぐれず、小雨の中、散策を行いましたが、霧の中どこから敵が攻めてくるか分からない、当時の人たちも感じていたであろう緊迫感を感じることができました。
午後は、和多都美神社、海神神社、歴史民俗資料館へ向かいました。
和多都美神社と海神神社は論社であり、どれが延喜式に記されているワタヅミ神社か決定し難いものとなっています。
和多都美神社は海の近くにあり、神社から見える海岸とそこにそびえ立つ鳥居を見て、海神の娘である豊玉姫命の印象を受けました。
海神神社は海には近いものの、拝殿は長い階段を上がった場所にあります。こちらは山幸彦である彦火火出見尊の印象を受けました。
神社を巡った後、歴史民俗資料館に向かいました。縄文時代、弥生時代の土器や石器が展示されており、昔の生活風景の様子が再現されていました。
4月30日
3日目の朝は、龍良山の原生林に向かいました。山登りをはじめてから、山の木を見る機会は多くなってきましたが、人の手が加えられていない原生林は形がとても独特で、今にも動き出しそうな形の木もありました。また、とても神秘的なものを感じパワースポットと呼ばれているのも納得です。普段とはまた違った山登りを楽しむことができました。
午後は、1日目に訪れることが叶わなかった万松院の宗家一族の墓所に向かいました。お墓を見ることで、その時代の財政事情等さまざまなことが読み取れると聞いたことがありました。現地に訪れて実際に目で見て学ぶことの大切さを最後に、改めて学ぶことができました。
おわりに
座学で学び話し合い、現地に赴き五感で感じ、自身の心に落し込む。
この塾に出会っていなければ、生涯、対馬へ行くことはなかったかもしれません。
仮に赴いたとしても、訪れる場所も限られ、全く違ったただの観光になっていたでしょう。
さらに学びを深め、もう一度、対馬に訪れたいと思います。現地でお世話になった皆様、ありがとうございました。
塾生 樋浦
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