賢愚相対性原理

 善と悪は、相対的なものである。つまり、多数の悪の中では、善が悪になる。善の前提が悪にも拘らず、悪を基礎として、善が成り立っているにも拘らず、その悪は、善として扱われる。故に、善は悪となり、悪は善となる。善は良きもので。悪は良かざるものとの認識の下では、自分にとって都合の良いものが善、都合の悪いものが悪となる。絶対善とか絶対悪というものは、現実の社会では、存在せず、あくまで観念の世界でしかない。善悪不二は、仏教で言われることであるが、これもまた観念論である。
 愚人が多くいる中で、賢人の言動は受け入れられず、その言動は、誤ったものとして処理される。つまり、馬鹿が賢い人を馬鹿者扱いするのである。善悪然り賢愚然り、いずれも相対的なもので、当然、時代によって変化する常識も同様である。良識は、不易であるが、これとて、大多数が良識だと判断すれば、良識として扱われる。つまり、「識」とは、固定したものではない。
 中国古代思想には、陰陽相待(対)性原理なるものがある。これは、陰と陽が対立するのではなく、両者が相待つ、つまり、陰が続くと、陽を求め、陽に転じ、陽が続くと、陰を求め、陰に転じる。陽は、分化発展する力を有ち、陰は、統一含蓄する力を有っている。分化発展し続けると、終には崩壊してしまう。それ故、拡がり過ぎた事物を結び統(す)べる必要がある。これが続くと、今度は、委縮してしまう。そこで、再び分化発展へと向かう。万物は、この陰陽を繰り返している。陰陽が調和したとき、安寧が齎(もたら)される。ここで言う陰陽とは、陰気臭いとか、陽気な人だとかいう次元とは異なる。