人生観
還暦を目前にして人生観の見えない人がいる。会話が乏しいからではない。他人に、何か一つくらい自負するものがあるだろうにと思う。自慢話を聞きたい訳ではない。他人から見れば、単なる趣味かも知れないが、そこには、確たる探求心や人生と重なる部分があることでも良い。厚みのある人生観は、その人の生き様に基づく。即ち、他者を圧倒する生き様において、滲み出る人生観である。幕末の人物で言えば、西郷隆盛、吉田松陰、橋本佐内が瞬時に想起する。その様な人物は、極めて稀であるが、凡人でも、還暦となれば、多少なりとも人生観が見えるものである。裸一貫の叩き上げでなくても、人生経験が何某かの生きて来た足跡を感じさせるものである。それでも、人生観が全く見えない人がいる。何となく生きて来たとは思はないが、まるでインパクトがない。この人を取り巻く環境に何等変化がなければ少しも問題はない。しかし、その環境が激変していれば、それは、本人はもちろん、周囲の人々にとっても重大な問題である。
人生観が見えないことの要因に、意識が関わっていると考える。デカルトは、「われ思う故にわれあり。」と言った。この訳は、分かり易いようで、誤解を招きやすい。「われ自身を考える。故にわれの存在を認識する。」つまり、「自覚」を言っているのである。その意識とは、正に自覚である。自覚がないから、存在が見えず、人生観が見えない。人は、他者から自己を批判されると、よく「分かっている」と言うが、大半は、言い訳であり、分かったつもりでしかなく、自分の立っている処から逃げているに過ぎず、自覚していないのである。
人生に深みを持たせるには、自覚は不可欠である。「如何に人生を深く生きるか、どれだけ人生を大切に生きるか。」これが正に、輝く人生観を創出する。物質に執着し、支配されているようでは、人性から遠ざかるばかりである。無味乾燥な人間ではなく、せめて、年を重ねるに連れて、人生観が見える人でありたい。