弘道館に義公を見る

 水戸遊学で訪れた水戸は、徳川光圀(義公)、徳川斉昭(烈公)、藤田幽谷、藤田東湖、会沢正志斎など多くの人物を輩出している。
 義公は成年時代に「史記」に記述されている「伯夷伝」に感銘を受けて、「大日本史」の編纂を志した。この志が後の日本國に大きく関わることになる。幕末の志士達が学んだ水戸学は、「大日本史」の編纂に関わった人達が日本の歴史のみでなく和文や和歌などの国文学や農政改革、外交など幅広く学問に取り組んだ過程を経て形成され、幕末には尊王思想、攘夷論へ繋がることとなった。
 儒学者、水戸学者であり彰考館総裁であった藤田幽谷は「尊王思想」の「正名論」を著わし、門下の会沢正志斎は攘夷論に繋がっていった「新論」著わし、いずれも幕末の志士達に影響を与えた。烈公は会沢正志斎に水戸学を学び儒教や神道なども学んだと思われる。
 そして義公から繋がるこれらの思想は、烈公が開館した弘道館の建学の精神に取り入られる。
 弘道館は藩士や子弟が学問と武芸の両方を学び(「文武不岐」)、学びは生涯行うものとして卒業はなかった。対試場に面した正庁に掲げられている斉昭公直筆の「游於藝(げいにあそぶ)」は、論語の述而第七「道に志し、徳に拠り、仁に依り、藝に遊ぶ」からとられている。義公が靈元天皇から賜った「文武にこりかたまらず悠々と藝をきわめる」がこの三文字に集約されている。なお「藝」は周礼の六藝(りくげい)『礼儀、音楽、弓術、馬車を操る術、書道、算術』である。
 弘道館の敷地には易経に由来する「八卦堂」や儒家の始祖、孔子を祀る霊廟の孔子廟がある。また、常陸国一宮である「鹿島神宮」から分霊を迎えた「鹿島神社」が建立されており建学の精神のひとつである「敬神宗儒」を現わしている。
 義公から受け継がれてきた水戸の精神を烈公がどっしりと受け取り弘道館に顕現されていた。

                   事務局長 吉川貴志