水戸遊学「三木神社の成立ち」
私にとって、伊勢神宮、靖国神社、三木神社は、特別の神社である。
今回、三木神社に参拝できたことによって、三木之次命(ゆきつぐのみこと)と繋がった様に思える。
三木神社は、常盤神社の末社で、水戸藩家老三木之次とその妻武佐を奉っている。このご夫妻の慈愛に満ちた行動がなければ、徳川光圀(水戸黄門)は、この世に生を受けることはなかった。水戸藩初代藩主水戸頼房と側室の間に命(いのち)を宿した光圀は、頼房の命(めい)により、中絶される運命にあった。しかし、時の家老三木之次とその妻武佐は、自邸に住まわせ、出産させて、光圀を養育した。この夫妻の行動がなければ、「大日本史」、水戸学、さらに「水戸黄門」という人気番組も存在しなかった。(「黄門」とは、中国の唐の時代の官職であり、わが国では、「中納言」に当たる。つまり、「水戸黄門」とは、「水戸の中納言」を指すので、光圀に限らない。しかし、光圀が歴史上突出して著名故に、その固有名詞の様になった。)光圀が三木之次武佐夫妻を敬慕したことは言うまでもない。
では、何故藩の家老を神様として、神社を建て、奉ったのか。三木之次の子孫である三木啓次郎(剣術家)が発願し、大阪の金剛組の施工によって、昭和40年12月創建された。その際、松下幸之助が多額の奉納をしたのは、幸之助が若かりし頃、三木啓次郎が自己所有の土地を担保に融資を受け、これを幸之助に融通したことへの恩返しであった。三木啓次郎は、桜田門外の変に関係する水戸藩士のお墓(四天王寺)を参るため、大阪に来ていた折、幸之助と出会っている。「水戸黄門」のテレビ番組のスポンサーが松下電器(現パナソニック)であることに納得する。
三木之次の通称は、三木仁兵衛(にへえ)である。私は、「号」に「仁平(じんぺい)」を使っているが、これは、私の曽祖父と祖父の氏名三木仁平(にへい)を拝借したものである。三木之次と三木一之、三木仁兵衛と三木仁平。単なる偶然とは思えず、そこに濃厚な結びつきを感ずる。そんな憶いを抱きつつ、水戸遊学二日目の朝、常盤神社(徳川光圀公と徳川斉昭公二柱を奉る。)の鳥居をくぐった。
常盤神社の境内の地図を確認するも、三木神社が見当たらず、辺りをうろうろ探していると、若い神職が「今、開けます。」と声を掛けて頂き、本殿に繋がる右横の門を開けて下さった。門をくぐると、その先に三木神社が鎮座している。末社とは言え、三木神社が如何に大切に奉られているかは、その位置が物語っている。私の超越した感動が間欠泉の如く噴き出した。日本の歴史上、燦然と輝く、天下第一等の人物、水戸学の始祖である徳川光圀と幕末の名君徳川斉昭の側に尊崇され、奉られている三木之次もまた、大きな足跡を今に伝えておられる。誠に身の引き締まる憶いである。
私は、水戸学を学ぶため、徳川光圀の書物を読み、三木之次の記載を目にした時から三木神社参拝の憶いを募らせていたので、現実となったことに喜びはもちろん、安堵した。
参考文献:日本人のための国史13/水戸光圀/名越時正著
常盤神社史/常盤神社
日本思想大系53/水戸学/今井宇三郎、瀬谷義彦、尾藤正英校注
人物叢書/徳川光圀/鈴木暎一著
塾長 三木一之