水戸学と「大日本史」

「大日本史」の編纂局は「彰考館」ですが、今回の水戸遊学では、「彰考館」(徳川ミュージアム)休館のため訪問しておりません。よって、特集記事の「弘道館」に掲載しております。

 平成30年9月講座において、明治維新の原動力「水戸学と日本精神」(副題 真の学問がここに在る 【徳川光圀と藤田幽谷】)をテーマに、また、令和3年10月16日講座において、渋沢栄一と水戸学、そして明治維新(副題 藤田東湖に見る尊王攘夷)をテーマに講義をしましたが、水戸遊学を踏まえ、私の視点で、水戸学と「大日本史」について記述します。
 水戸学の始まりは、徳川光圀が「大日本史(この名称は、水戸藩第三代藩主徳川綱條による。)」の編纂を命じたことにあります。「大日本史」は、1.歴代天皇の事蹟 2.后妃(きさき)3.皇子(すめみこ)4.皇女(ひめみこ) 5.諸臣 6.将軍(源氏三代・足利三代) 7.将軍家族 8.将軍家臣(北条氏執権等)を編輯した書籍であり、完成したのは明治39年です。その編纂には、資料収集、人材招聘、学者の生活費等多額の費用を要し、水戸藩の財政難の一因となりました。やはり、「知の財産」もお金がかかる!その学者の中には、崎門学派(山崎闇斎を師とする学派。)も含まれていました。
水戸学は、250年に亘る「大日本史」の編纂の過程で培われた学問でありますが、衰微していた時期もあり、復活は、水戸藩第六代藩主徳川治保(はるもり)、立原翠軒(たちはらすいけん)、藤田幽谷(ゆうこく)によって齎され、その後、会澤正志斎、藤田東湖に引継がれ、その多くの著書によって、幕末の志士たちに多大な影響を与えました。
 時代背景に目を向けると、徳川光圀は、第三代将軍徳川家光の従弟で、漸く徳川幕府が安定しつつあるけれども、未だ盤石と言い難く、徳川将軍の権威を隅々まで渡らせる必要がありました。そのような時代に、光圀は、「将軍と雖も天皇の臣下である」と断言し、その思想に基づき、「大日本史」を編纂し始めたのです。徳川家康は、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定し、朝廷と公家を統制しました。当然、朝廷と公家から不満が出るでしょう。それが反徳川の残党や外様大名と結び付くと、徳川幕府にとっては、厄介なことになります。そのような時代背景に生み出された「大日本史」は、単なる歴史書ではなく、政治色を帯びた書物と言えるでしょう。もちろん、徳川光圀も水戸藩第九代藩主徳川斉昭(なりあき)も「尊王敬幕(天皇を尊び、幕府を敬う)」を基本に置いていました。
 何故、徳川光圀が「大日本史」を編纂しようとしたのか?光圀の思想、活動に多大な影響を与えた人物がいます。明(中国)の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)です。当時の中国は、清(満民族)が明(漢民族)を征服、支配しましたが、明の志士たちは、祖国復興のため、わが国に援助を求めました。しかし、徳川幕府は、鎖国政策を理由にこの要求に応じません。そのとき、朱舜水も長崎に来ており、儒学を学ぼうとしていた光圀にとって、誉れ高い朱舜水は是が非でも教えを受けたい人物であります。名君には、優れた学者が側近にいます。浅野長直(ながなお)に山鹿素行(やまがそこう)、保科正之(ほしなまさゆき)に山崎闇斎(あんさい)、池田光政に熊沢蕃山(ばんざん)、徳川斉昭に藤田東湖といずれも天下第一等の実践躬行の学者です。残念ながら、古代中国には、孔子が仕える名君はいませんでした。「実際舜水の学問は、朱子学や陽明学にかかわらず、孔子を本宗とするが、決して訓話や抽象論にとどまることなく、道を実際の生活や事業の中にいかしてゆく実用の学者であった。」(水戸光圀/名越時正/日本人のための国史/昭和41年2月25日発行)
 「大日本史」の体裁は紀伝体で、中国の司馬遷著書「史記」に倣っています。明末の激動を生きた朱舜水の祖国への憶い、その志は、徳川光圀の「大日本史」を通して、藤田幽谷、会澤正志斎、藤田東湖によって幕末の志士へと受け継がれたのです。
塾長 三木一之


参考文献

水戸光圀/名越時正/日本人のための国史/昭和41年2月25日発行
幽谷、正志齊、東湖/高須芳次郎著/昭和12年1月3日発行
大日本思想全集第18巻/大日本思想全集刊行會/昭和8年3月15日発行
日本思想大系53/水戸学/1973年4月28日発行