命一つの使い道生きて活かすも死して活かすも生き切ったるが人の道
去稚敬天塾
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沿革
水戸市立博物館→弘道館→水戸城址→水戸黄門神社→木村屋本店
水戸の概観を知るために訪れた当館は、昭和55年に開館し、水戸の歴史、民俗、自然、美術の関する資料が展示されていた。幕末に徳川斉昭、藤田東湖の元へ訪れた志士達の資料が多数展示されている。
*写真は、徳川慶喜直筆 「淡如水」
水戸斉昭が命じて行った「天保地検」の絵図は、「地検」と云うイメージと異なり和やかに行われている様子で描かれており、地元でないと見る事が出来ないものである。
*地検の様子(一部)
大東亜戦争の末期に全国の都市部へ行われた米軍による爆撃は、水戸にも行われており、投下された焼夷弾が展示されていた。木造が多い日本家屋に着火しやすいナパーム弾(ナフサ、重油)を多数装填された爆弾である。民家を焼き尽くす目的で作られ投下された爆弾は民家に着火し火の海となり多くの人の命を奪っている。
水戸藩第9代藩主徳川斉昭によって水戸城三の丸に創立された藩校。天保12年(1841年)7月に落成。弘道館の中心となる正庁は藩主が臨席し文武の試験を行った場所である。他に対試場や至善堂、孔子廟、鹿島神社、八卦堂、医学館、天文台、武漢、三十間長屋、調練場などの教育施設があった。圧巻されたのは、徳川斉昭の命により、水戸藩医の松延年(まつのべ ねん)が書いた扁額である。斉昭の直筆ではないが迫りくるものを感じた。
対試場に面した正庁に掲げられている斉昭公直筆の「游於藝(げいにあそぶ)」は、論語の述而第七「道に志し、徳に拠り、仁に依り、藝に遊ぶ」からとられている。斉昭公の「文武にこりかたまらず悠々と芸をきわめる」が伝わる。なお「藝」は周礼の六藝(りくげい)である。
二の丸趾には、幼稚園、小学校、高等学校が建設されており本丸跡も水戸第一高等学校となっている。本丸と二の丸の間にあった空堀はJR水郡線の線路となっている。
二の丸から水戸駅へ向かう道路沿いに水戸黄門神社が鎮座している。この地は光圀の出産に関わり養育をした三木仁兵衛之次の屋敷跡でもある。
塾長の饅頭好きで立ち寄った木村屋本店は、創業万延元年(1860年)の老舗和菓子屋であった。「銘菓 水戸の梅」は、小豆こし餡を求肥で包み、シソの葉でくるんだ和菓子で絶妙の味でした。