水戸遊学全旅程 2日目

回天神社→常盤神社(東湖神社参拝、三木神社参拝、常盤神社昇殿祈願)→義烈館→偕楽園(好文亭)→茨城県立歴史館

回天神社

朝7時に水戸駅前でタクシーに乗車し回天神社へ向かった。
昨日、水戸市立博物館近くのコンビニエンスストアの店員に弘道館までの道を尋ねたが弘道館を知らないようであった。年齢も若く今の時代であるから仕方ないと思った。ところがこの日乗車したタクシーの運転手は回天神社を分かっていなく別の神社へ向かって走っていた。到着した場所はたまたま回天神社の近くだったので事無きを得た。歴史を大切に受け継いでいると思い訪ねた水戸であったがここでも年齢に関係なく歴史が忘れ去られているのを感じさせられた一件であった。

回天神社の社名は藤田東湖の著作『回天詩史』に由来する。安政の大獄、桜田門外の変、東禅寺事件、坂下門外の変、天狗党の乱、会津戦争などで殉じた水戸藩士を中心とした志士を祀る神社である。昭和44年(1969年)、明治百年記念事業の一環として、松下幸之助らの提唱により忠魂塔前に本殿、拝殿、鳥居、参集殿などの社殿が建立された。
神社の隣の敷地には、水戸光圀公が家臣に賜った「常盤共有墓地」があり、水戸藩士一千有余の御霊が祭られている。(参考:Wikipedia回天神社)

常盤神社

明治初年、義公(第2代藩主徳川光圀公)・烈公(第9代藩主徳川斉昭公)の徳をしたう多くの人達によって偕楽園内に祠堂(しどう)が創立。明治6年、明治天皇の勅旨をもって『常磐神社』の御社号を賜る。
  明治7年、現在地に社殿を造営し5月12日遷座祭が行われた。
義公には「高譲味道根命(たかゆずるうましみちねのみこと)」
烈公には「押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたてのみこと)」
の御神号が宣下された。(常盤神社ホームページより)

常盤神社の一の鳥居の近くの「御田」横には、「農人形」の銅像があり以下の由来がある。
「斉昭公は部屋住みのころから「お百姓」といって銅製で作った小さな像をお膳の上において、その像の笠に飯粒を少し供えて感謝の心を捧げてからお食事をされたました。」(銅像の説明書きより)
その食事の時に唱えておられた詩。
「朝な夕な 飯くふごとに忘れじな めぐまぬ民に めぐまるる身は」
烈公ご自作の農人形は「水戸黄門宝物館」に所蔵されている。

東湖神社
(常盤神社摂社)

 

 

1943年(昭和18年)に創建された東湖神社は藤田東湖を祀る神社で、常盤神社境内西側に建立されている。

三木神社
(常盤神社末社)

「徳川光圀公(水戸黄門)は、水戸藩家老三木邸にて誕生し、幼少の頃はこの三木夫妻に慈育されました。また、御神裔三木啓次郎氏は、松下電器創業者の松下幸之助氏が苦労されていた若い頃に援助をされた、というご縁で、当社の鎮座の際は松下幸之助氏より多大な浄財が奉納されました。このようなことから、現在もテレビドラマ「水戸黄門」は松下電器の提供となっております。」(常盤神社ホームページより)
三木神社は明治時代に定められた社格制度により末社となっているが、本殿域内に鎮座されており、境内の神社で最も常盤神社のご祭神に御守りされていることを伺い知ることができた。
*三木神社については、下記に詳細を記載しています。
  三木神社の成立ち

(参考:摂社・末社について(社格は摂社が上位と位置付けられた。現在はこの規定はない。))
(摂社の規定が下記。下記以外が末社となる)
-本社の祭神の后神(きさきがみ)、御子神(みこがみ)、その他由緒ある神を祭った社
-祭神が現在地に移し祭られる以前に祭られていた場所にある社
-本社の祭神の荒魂(あらみたま)※荒ぶる魂 を祭る社
-本社の地主神を祭る社
-その他、特別な由緒のある神を祭る社

義烈館

(昭和33年開館。館名は義公、烈公より。)
常盤神社境内にあり光圀公・斉昭公の遺品・遺墨をはじめ、水戸史学・水戸学関係の資料を展示している。建物は小さいが資料は厳選されたものが展示されている。
パンフレットに記されいる展示物のみを紹介する。
 光圀公関係:「救民妙薬集」「大日本史(目録5巻と397巻)」
斉昭公関係:「農人形(前掲)」「大陣太鼓」「大砲(太極)」
展示資料のなかで領民に分け与えられた「救民妙薬集」に目を惹かれた。光圀公が領民を思い侍医鈴木甫庵に命じて作らせたものである。序章にそれが記されている。「山村には医もなく薬もなく、治療を受けられず天命を全うすることが出来ない者が多い。これは誠に残念であるとし田舎でも手に入れやすい薬の処方を命ぜられた。397種をえらび編集した」(光圀公侍医鈴木甫庵)

義烈館で学んだあと境内にある食堂でお昼とし、おすすめとなっていたかき揚げ丼ぶり定食と納豆定食を注文し、今回の水戸遊学の直来とし日本酒を少々戴いた。

偕楽園

日本三大名園の一つで梅林が有名な偕楽園は、徳川斉昭公が藩内随一の景勝地として設けた遊園である。天保13(1842)年7月1日に開園。
 名称は『孟子』巻一梁惠王章句上、第二節の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」(文王は民の力を動員して台や池を造ったが、民はそれを労苦と思わずに、反ってこれを喜び楽しみ、文王の徳を称えた。)からとっている。
このように偕楽園は、藩主や藩士のみならず庶民にも開放する目的を掲げた庭園で、斉昭公も「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」と「偕楽園記」に記されており庶民への思いは光圀公と通じるものがある。
 そして偕楽園内にある「好文亭」は斉昭公の別邸であるが藩内の人々と偕に楽しむ場でもある。各部屋の襖絵は画壇の第一人者が描いており、障子や襖にも工夫が凝らされいる。日本初と言われている1階の調理室から3階につながる配膳用の昇降機があり芸術のみでなく新しいものを取り入れているのが斉昭公らしいところである。

茨城県立歴史館
(一橋徳川家記念室)

昭和62年10月に開室。『御三卿』の一つとして高い格式を誇った一橋徳川家の12代当主徳川宗敬氏から寄贈された総数約6,000件にのぼる伝世の美術品や文書、記録類を収蔵し、テーマ別にその貴重な資料を順次公開している。