水戸遊学 (令和三年十二月十一日・十二日)
今まで去稚敬天塾で学問をしている中で、儒学という言葉は切っても切り離せないものだった。江戸時代には儒学から生まれた朱子学が学問においての王道となっていたが、そこからさらに派生して生まれたのが水戸学である。
今回は、水戸学の源泉に触れるべく、茨城県水戸市に1泊2日の遊学へ出向いた。遊学は決して遊びにいくわけではない。故郷を離れ、よその土地へ行って勉学をすることである。
1日目
1日目の始めは、弘道館や水戸城跡に行く前に水戸の歴史を知るべく、水戸市立博物館へ向かった。 水戸市立博物館 では渋沢栄一と水戸の歴史が時系列で展示されていて、江戸時代から戦後の水戸の歴史を学ぶことができた。中でも驚いたのは、水戸空襲の際に使用された焼夷弾が展示されていたことだ。戦争の時に各地で焼夷弾が落とされていたことは歴史の授業でも学んでいたが、家屋を燃やすことが目的のものだと聞いたときに、小さな火のついた松明のようなものをイメージしていた。しかし、実物の大きさはまるで異なり、180センチ以上の塊だった。こんなものが頭に当たれば即死してしまう。自分の目で見て学ぶことの大切さと戦争の怖さを改めて感じることができた。
戦争でなくなってしまった建造物が見られないのは心惜しいが、次は弘道館へ向かう。
弘道館は水戸藩士の藩校として建設されたもので、水戸城跡からは近い距離にあった。弘道館に入ると、まず目に入るのが『尊攘』の大きな掛け軸だ。ここまで大きな掛け軸を今まで見たことはなかったので驚いた。なにより、字に迫力があり徳川斉昭の尊王攘夷の思いがストレートに伝わるものであった。
弘道館は当時、将軍など身分の高い人も宿泊する場所でもあったため、内装も外装もとても綺麗な作りになっていた。今までも古い民家や建物を見てきたが、圧倒的に違ったのはお手洗いやお風呂場の広さである。お手洗いは人が一人は入れる大きさ、お風呂もがんばっても二人が入れる大きさのものがほとんどであったが、どちらも人が何人も入れるほど大きいものだった。
弘道館は宿泊だけではなく、藩士の学び場、藩校として利用されていたので日々学問が行われていた。また、学問だけではなく、武芸も嗜む、文武不岐を掲げていることから、外には対試場があり、外から弘道館を眺めると、文を学び武を磨く当時の藩士の姿が目に浮かんだ。
最後に水戸城跡を散策した。水戸城跡は現在、幼稚園、中学校、高校等が建設されていて学びの場となっている。
水戸城跡はとても広く、門や櫓などは修繕はされているものの、そのまま残っている。御三階櫓と呼ばれる五重なのに三重に見える櫓もあったそうだが、空襲で焼けてなくなってしまったそうだ。
水戸城跡の見どころとしては、水戸城ができるさらに前から存在する薬医門である。とても歴史の感じる門が学校の中にある風景が面白いと思った。
宿泊場所に向かう前に、水戸黄門神社へ向かった。水戸黄門神社は道路の脇にひっそりと佇む神社で通り過ぎてしまいそうになった。こじんまりとした神社ではあったが、綺麗に保たれていた。水戸黄門の神社があると知った時は、水戸黄門のドラマの中の黄門様が祭神となっている神社なのかと思ったが、実際は、徳川光圀生誕の地であり、常盤神社が管理しているそうだ。明日は、徳川斉昭、徳川光圀が祭神として奉られている常盤神社に向かう。
2日目
2日目は始めに回天神社へ向かった。回天神社は、安政の大獄や桜田門外の変、天狗党の変などで命を落とした志士達が眠っている。回天神社の近くには、藤田幽谷、藤田東湖、藤田小四郎、格さんのモデルとなった安積澹泊のお墓も立っていた。藤田東湖は安政の大地震で被災し、50歳で亡くなっている。多くの偉人が亡くなった安政の時代。これからも江戸の時代にはまだまだ学ぶべきことが沢山ある。
回天神社の後は、常盤神社に向かった。
常盤神社は、徳川斉昭、徳川光圀が祭神となっている神社だ。常盤神社の周りには、藤田東湖を祭った東湖神社、三木之次夫妻を祭った三木神社がある。塾長は今回の遊学で三木神社に参拝することを楽しみにされていた。三木神社で祭られている三木之次がいなければ、徳川光圀が生まれてくることはなかったのだという。
常盤神社では、昇殿祈願をして頂いた。祈願の流れは、以前に伊勢神宮で祈願して頂いたときと似たようなものであった。最後に頂いたものの中に、若者向けのアニメか何かの絵馬が入っていて、神社も時代に合わせて試行錯誤をしているのだと思った。
常盤神社のすぐ傍に、義烈館と呼ばれる資料館があったので、立ち寄った。ここには大日本史が多く提示されていた。弘道館にも展示されていたが、倍くらいの量の大日本史が展示されていた。てっきり、1冊の分厚い本なのかと思っていたが、何冊にも分けて書かれていた。実際に現地で見て知ることが沢山ある。
お昼は水戸の名物、納豆の定食を食べてから常盤神社のすぐ近くにある偕楽園に向かった。
かいらくと聞くと、快楽という漢字を想像するが、多くの人々とともに楽しむという意味の偕楽という漢字が正しい。私も初めて聞いたときは、快楽だと思っていた。
偕楽園は、斉昭が作った庭園であり、水戸に住む人達の憩いの場となっていた。また、弘道館で学問をするだけではなく、一張一弛、たまには張ったままの弓を緩めるように、休息が必要であるという斉昭の思いから作られたそうだ。庭園は梅の木が沢山植えられていたが、この時期は花が咲いていなかったので偕楽園で綺麗な景色が見たい場合は、梅の花が咲く季節に訪れるのが良い。偕楽園の中には、詩歌や茶会が開かれていた好文亭という建物があった。作りは弘道館と異なり、3階建てになっていて、3階からは偕楽園の庭園を一望することができた。
最後に、茨城県立博物館へ向かった。
義烈館にも置いていたが、日本刀や甲冑、着物などを見ることができた。やはり、展示物を実際に見るのと写真でみるのとでは、細かいところまで見ることができるので、感じ方が異なるものだと思った。
最後に
今回の水戸遊学で改めて、現地に出向いて自分の目で見ることの大切さを学んだ。実物を見て、五感で感じることができるのもいいことだが、それだけではない。
私は仕事で英語を使うことがよくある。分からない英語をインターネットで調べていた時に、辞書を買って調べたほうがいいと教えて頂いたことがあった。インターネットの検索に比べると、辞書で調べるのは時間がかかる。なぜ辞書を使うのか、その時は分からなかったが、辞書を使う利点に気が付いた。それは、調べたときに全く関係のないものが周りに出てくることだ。例えば、英和辞典で「history」と調べると、「hit」という全く関係のない単語も同じページに出てくる。そして、関係のない単語の意味も知ることができる。反対にインターネットは自分の調べたいことをピンポイントに調べることができるため、関係のないものは出てこない。これと同じように、現地に出向いてみると、広い視野で学びを得ることができる。これが、現地に出向くことの良さであり、たとえ便利だと言われているものにも良し悪しがあるのだと私は思う。
斉昭が藩士たちに、弘道館で学問させるだけではなく、武芸もさせて、偕楽園で休息させていたのは、1つの視点に囚われず、広い視点で物事を考えることができる柔軟性を養うためだったのだと現地に行ったからこそ感じることができた。
そして、私も様々な視点で仕事や学問に取り組み、これからも精進をしていく。
塾生
樋浦 優人