水戸遊学の体験談
【弘道館】そこは、単なる藩校ではなかった。江戸時代の学問の集大成、総合大学であった。当時の面積は、31,762.5坪(東京ドーム2.24個分)である。
「弘道(こうどう)とは何ぞ。人、よく道を弘(ひろ)むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(たいけい)にして、生民(せいみん)の須臾(しゅゆ)も離るべからざるものなり。」(水戸學53、日本思想大系)で始まる「弘道館記」(徳川斉昭著)には、徳川斉昭の藩政改革への熱い憶いが綴られている。真の学問に基づく教育なくして治世は実現しない。現在のような受験勉強や知識の詰込みでは、人物は育たない。徳川斉昭は、有能な人物を世に送り出すことが次の世の発展に繋がると考えたのである。入館即、正庁諸役会所の真正面に飾られた「尊攘」(墨書)の圧倒的な存在感は、徳川斉昭の偉大さを今に伝えている。
徳川斉昭は、幕末の志士の間で隠れたベストセラー「新論」を著述した会澤正志斎に学び、水戸学の神髄を感得している。いつの世も改革派と保守派は、存在し、対立する。その改革が急激なものであれば、「従来通りの役人的」な者にとって、それは、自分の生活を脅かす極めて危険な改悪と捉える。当時、欧米列強が日本に対して侵略を企てている状況にあって、海防、教育の改革が急務でありながら、江戸幕府においても、改革派の声は届くことはなかった。そのことが討幕の一つの要因になっている。
弘道館正庁(学校御殿)の便所に進み入ると、大使用、小使用、手洗い場の3室があり、大使用の部屋が板張りではなく、畳敷きになっているのが印象的であった。
館内には、数多くの書物類が展示されているが、ガラス越しに見た「大日本史」は、その量と装丁から他を圧倒し、徳川光圀によって着手し、完成したのが明治39年、約250年の歳月を費やした文献の凄みを感じた。
館外に出ると、遠目に、対試場に面する縁側の長押に掲げられている扁額「游於藝」の大きさに気づく。館内に扁額の説明があるも、それが何処にあるのか不明であった。その説明によると、「游於藝」は、徳川斉昭自筆によるもので、「芸に遊ぶ」と読み、論語の一節にあり、文武に凝り固まらず芸の道をきわめるという意味がある。遊び心も必要だと言える位、学問を行っているかと問われれば、聊か心許ない。墨書を究めることも難し。
【水戸城】本丸城跡に、現在、茨城県立水戸第一高等学校が建っており、その堀を電車が通過するさまは、歴史と現在が融合しているようで、橋の上から眺める光景は、何とも珍妙に思えた。
二日目【常盤共有墓地先賢志士の墓】を訪れ、その敷地の広大さに驚愕した。常盤共有墓地管理委員会の説明によると、この墓地は、水戸徳川家第二代藩主徳川光圀公(諡義公)より家臣に賜った墓地である。入口に備えられた案内図には、65基の墓石の氏名が示され、幕末の水戸の志士が鄭重に安置されており、著名な人物については、幟が立てられて、訪れる者に見つけ易く配慮されている。最初に、安積澹泊(あさかたんぱく)の幟が目に入った。澹泊は、通称覚兵衛と言い、水戸黄門の格之進(かくさん)のモデルと言われており、江戸中期の儒学者で、「彰考館(大日本史の編纂局)」の総裁を務めた人物である。その先に、一際大きな墓石がその存在感を顕しており、これが藤田幽谷と藤田東湖の父子のものである。ここには、それぞれの夫人の墓石も設置されている。
藤田幽谷は、神童と言われ、16歳で彰考館正員となり、18歳のとき、松平定信(白河楽翁)から文辞(文章)を求められ、「正名論(せいめいろん)」一篇を奉った。これは、日本の國體を説き、君臣の大義を明らかにし、皇室中心を唱えたものであった。幽谷の志は、経国(国家を経営し、国を治める。)にあった。
幽谷の息子藤田東湖もまた、優れた儒学者であり、特に著述に長けており、回天詩史(自叙伝)、文天祥正気歌和(ぶんてんしょうせいきのうたにわす、正気歌)、弘道館記述義(徳川斉昭が藩校弘道館の建学の精神を記した「弘道館記」の解説書)等幕末の志士に大きな影響を与えた著書がある。
会澤正志斎の「新論」が政治論であるのに対し、「弘道館記述義」は、道徳論である。西郷隆盛は、藤田東湖を心底尊敬し、東湖の突然の死は、西郷の心身を打ちのめすものであった。
私は、今此処に、水戸学の偉大な父子と向き合っていることにこの上もない感動を覚えた。
そして、入口に戻り、藤田東湖の息子小四郎を拝み、墓地を後にした。
タクシーで、【常盤神社】に到着。今回の水戸遊学の最重要な目的の一つである常盤神社正式参拝。正面から見る鳥居は、階段の中腹にあり、両側を木々が覆い被さっていて、奥に続く境内の荘厳さを予感させるものである。成程、明治時代の別格官幣社の風格を備えている。本殿は、実にどっしりしていて、その背面には、緑が生茂り大木が本殿を守る如く一体化している。神社の朝は、空気が一層澄み切っている。
常盤神社の摂社【東湖神社】も立派な鳥居を有ち、他の神社の摂社と比べて、破格の規模である。知の巨人「藤田東湖」の存在が、徳川斉昭公にとって如何に大きかったか窺い知れる。
常盤神社が隣接する【偕楽園】は、水戸藩第九代藩主徳川斉昭によって造園され、日本三大名園の一つである。広大な土地一杯に広がる梅林の枝が静けさを増していた。当然ながら、この時期梅の花は皆無で、訪れる人も僅かであった。2月であれば、この庭園は、人々で埋め尽くされるであろうことが容易に想像できる。珍しくも、二季咲桜(にきざきさくら)の花が一際存在感を放っていた。
園内に設置された【好文亭】は、徳川斉昭の「芸に遊ぶ」を顕現したもので、部屋の襖の梅図や建物の造り、庭の容姿が見事に調和された気品に満ちた知的空間である。好文というのは梅の異名で、「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった。」という中国の故事にもとづいて名付けられた、と説明されている。菅原道真公といい、徳川斉昭公といい、学問に長けた人物は梅を好むようである。
憶いを山積みにして臨んだ【水戸遊学】は、十二分に応えてくれた。知識だけでは得ることができない当時の水戸藩主・藩士の息吹、志、そして、生きた空間、香り、水戸学の本質を感得することができた。とりわけ、弘道館と常盤神社に接することができ、そこから得たものは、さらに自分自身の感性を高め、進化に繋がるものと確信している。今回の研修も実に有意義であった。
塾長 三木一之