一乗谷朝倉氏遺跡
かねてより、大いに興味を抱いていた「一乗谷朝倉氏遺跡」を訪ねる機会に恵まれ、吉川事務局長とともに史跡探訪を実践した。梅雨の真只中にもかかわらず、時折青空をのぞかせる天候で、折りたたみ傘の出番はついぞなかった。
先ずは、当主館である朝倉館跡(第五代朝倉義景)の唐門を潜り、戦国時代に思いを馳せる。建物は、一切存在しないが、広大な敷地に発掘された遺構が数多く、朝倉氏の繁栄を容易に想像させる。朝倉氏と言えば、真っ先に、「姉川の戦い」を想起する。織田・徳川軍対浅井・朝倉軍が激突した戦である。その後、「一乗谷城の戦い」で、織田信長によって、城下町は焼き払われ、朝倉氏は滅亡した。その繁栄と滅亡は、奥州藤原三代と重なって、様々な憶いを交錯させる。
今回は、朝倉氏五代、百年余続いた町の繁栄に思いを馳せる。北から南に続く両側を山に挟まれた約1,700mの長大な町並、この谷筋に一大城下町が築かれたことは驚愕である。朝倉館跡の高台に上ると、民の平和な暮らしが明確に視認できる。現代と比べて、その生活は質素で、地味であったに違いないが、互いに寄り添って、安寧なときが流れていたのであろう。天然の要害の中で、戦国大名の朝倉氏とその城下に住む人々が一体となって、一乗谷に治世を齎したことは、社会秩序の模範と言える。当時の暮らし振りが分かる遺跡を間近に見ることができるのは、実に有難い。朝倉館跡の高台から山上(一乗谷城跡)への登山道は、閉鎖されていたので、そのまま下って、上城戸跡へ向かった。ここが南の防御口で、100mの土塁が築かれている。規模としては、圧迫感を与えるものではないが、騎馬隊が容易に侵入することを防ぐ役割をも担っていたのであろう。その後、一乗谷朝倉氏遺跡博物館へと移動した。この博物館(新館)は、令和4年10月にオープンし、僅か半年で、10万人の来館を達成しており、遺跡の調査を鮮明に伝えている。館内に入って、広さと設備の豪華さに驚嘆した。ゆったりとしたスペースに多くの展示品が随所に置かれており、石敷遺構のために、室温・湿度・照明の管理設備が施された何十坪の一室が設置され、出口と入口が自動ドアになっている。「総事業費は現資料館の改修費を含め約49億8千万円。(福井新聞オンライン2022年1月27日)」
(令和5年6月24日探訪)塾長三木一之