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活動の紹介

研修

九州巡業・視察の記録(11月23日~26日)1

11月22日夜、私と吉川事務局長は、関西国際空港を出発、鹿児島空港に到着、金生町のホテルに宿泊した。
 翌朝、九州巡業・視察の初日、早朝五代友厚の像を眺める。大阪北浜証券取引所前の立像とは趣を異にし、都会の中に設えた簡素な公園に、確かに写真で見た通りの顔立ちがあり、身近な存在に感じた。やはり、薩摩が似合う人物だと思う。 
 その後、城山を背に、西郷隆盛像を見上げる。木々に囲まれ、軍服に身を纏った堂々たる姿こそが西郷隆盛の実像に最も近いものであろう。妻イトは、上野公園で西郷隆盛像の除幕の際、「うちの人はこげんな人でなか」と言ったように、着物姿に下駄履きよりも軍服・軍靴が絵になる人物である。
 私の体を180度回転させると、27歳で薩摩藩家老となった小松帯刀像が紙と筆を以て、端正な顔立ちで斜め前方を向いて立っている。西郷隆盛同様、島津斉彬に見出され登用された小松帯刀の首は、照国神社てるくにじんじゃに向いている。照国神社は、島津斉彬、島津久光、島津忠義を祀っており、小松帯刀が三公にとって無くてはならぬ存在であったことを彷彿とさせる。
 早朝の見分を終え、仙厳園へと向かう。乗車すべきバスに戸惑いながら到着し、そこで目にした施設は、歴史を呼び起こす壮大な空間であった。
 11月11日に行った、テーマ「島津斉彬」の勉強会で、島津斉彬が創造した一大コンビナートの事業を学んだが、「反射炉跡」を目前にしたとき、そのスケールの大きさから、思わず空を見上げた。
 さらに先へ進むと、「示現流じげんりゅう・薬丸自顕流じげんりゅう」の展示室があり、薩摩人の激発的な気性を顕現した剣術に圧倒された。その特徴は、上段の構えにあり、如何にも身体を斬るというよりも骨を砕かんとするもので、剣の達人、新選組の近藤勇隊長は、隊士に、示現流・薬丸自顕流の剣士との斬り合いを避ける旨を言っていたほどである。
 そこから少し坂を上がると、磯御殿があり、ガイドに案内されながら、御殿内を見学した。最後の薩摩藩主島津忠義やその後継の島津家当主島津忠重の生活ぶりを想像しながら、ガイドの説明を聞くとともに質問をしていると、庭園の池に思考が留まった。池の中に八角形の石造りの物があり、これは、易の八卦を表わしたもので、中国古代思想の陰陽相対(待)法理(陰は統一含蓄、陽は発展分化、相対立すると同時に相待つ。陰陽相応じて新たな創造変化が生じる。)を取り入れたものである。この外にあるものが陽で、中庭の池の中にある八角形の石造りの物が陰を表わしている。江戸時代は、儒学が盛んで、中国古代思想の影響が多々見られる。庭から広がる穏やかな風景を愉しみ、この様な閑静な佇まいの中で学問をしていると、都会の喧騒には存在し得ない、きっと深奥な思惟が生まれたであろう。
 御殿を出て少し下ると、奇妙な石の飾り物があった。ワニが空に向かって2本足で立っているようで、龍にも見えるし、亀にも見える、不思議な造形物である。先を進むと、日本初のガス灯に鶴の羽を模かたどった笠が存在感を示していた。
 さらに川を渡って奥へ進むと、曲水の庭に古の雅が蘇る。ここは、時がなだらかに流れており、賑わいを寄せ付けない空間である。その上は、江南竹林が一帯を覆っている。
 再び川を渡って、山手へと上がる。島津斉彬の曾祖父島津重豪しげひでが建てたとされる「観水舎」の跡から滝を眺めるが、目前の木の枝が眺望を遮っていた。島津重豪は、奥にあるこの滝を眺めるために「観水舎」を建造したと説明書きにある。木の枝が時代の経過を語っている様に思えた。その奥に進むと、「集仙台」と名付けられた展望台があり、眼前に鎮座する桜島は圧巻であった。何といっても、桜島は、古今薩摩の人々にとって、神の存在である。集仙台で心を和ませる島津重豪の姿を思い浮かべながら暫し桜島を眺めていた。
 下山後、尚古集成館へと移動、ここは、旧集成館機械工場(日本最古の石造洋式機械工場)で、島津斉彬が推進した造船事業、薩摩切子のガラス細工事業、紡績事業等様々な機械、模型、そして、「孔子聖蹟図屏風絵」の複写が展示されている。その屏風絵は、屏風に孔子の生涯を描いた絵図で、島津忠良(日新じっしん斎さい)がこれを日々見ていた。(加世田郷土資料館がその写しを所蔵している。)私は、その中で、「宥坐ゆうざの器き」を説明した絵図の前で暫く足が釘付けになった。
 「宥坐の器」は、孔子が桓公の祠廟に参詣した際、傾いた器を見て、守廟の役人に、何の器かを尋ねたところ、役人は次のように答えた。「これは宥坐の器と称するものらしいです」「私の聞くところによると、宥坐の器なるものは、空の時は傾き、中位で正しくなり、一杯になると覆るのだそうだ」(新釈漢文大系・荀子下宥坐篇) 
この器の三つの状態、空で傾いている状態、水を適量に入れて安定した状態、水を一杯に入れたためにひっくり返って水がこぼれた状態を絵図で表し、そこに漢文が記載されている。これは、「抑損よくそんの教え」を説いたものであり、私は、この話を「荀子」で知って以来ずっと心に留めており、尚古集成館で「宥坐の器」の絵図に出会ったことに大変感激した。
 事前に勉強会をした甲斐あって、展示されている物の一つ一つが興味深く、牛歩の見学となった。やはり、書物を読むだけでは、実感がなく、歴史を感じ、感性を高めるには、その場所に立つことの必要性を痛感した。
 尚古集成館を後に、西郷隆盛の墓地へと向かう。鹿児島のバスに不慣れなため、降車すべきバス停にあたふたするも徒歩で補いつつ目的地に到着した。
 平成16年7月に、賢人塾の田端様にご案内して頂きこの地を訪れて以来、2度目のお墓参りである。桜島に向って建てられているお墓に、西郷隆盛を始め、西郷を慕った薩摩士族の熱い思いが今尚ひしひしと伝って来る。その石碑の一つ一つに、主への遺族の尊崇と誇りが感じられた。死して尚、これ程までに多くの志有る者に慕われ、現在も多くの人々がお墓参りをする。その様な人物が他にいるだろうか。正に、西郷隆盛が天下第一等の人物であることを顕現しており、この墓の前に立つと、全身でそのことを感じる。
 その後、西郷南洲顕彰館にて、西郷隆盛の生涯と向き合う。
幕末の名君・薩摩藩主島津斉彬は、後年、松平慶永(春嶽)に「私家来多数あれども誰も間に合うものなし、西郷一人は、薩国貴重の大宝也、しかしながら、独立の気象あるがゆえに彼を使う者私ならではあるまじく(西南戦争と西郷隆盛・敗者の日本史)」と語った。
 そして、坂本龍馬は、勝海舟から、西郷隆盛に初めて会った印象を問われて、「西郷は馬鹿である、大馬鹿である。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。その馬鹿幅が分らない。残念なのは、その鐘をつく撞木しゅもくが小さいことである。(西郷隆盛(上)中公新書)」と答えた。
 誠に、西郷隆盛という人物は、古今東西興味の尽きない魅力あふれる人物である。
 ここからは、夕暮れ、日没との闘いである。南洲翁終焉之地(西郷隆盛終焉の地)へと速歩、さらに五代友厚誕生地に足を運び、西郷南洲翁設立私學校跡の前で立ち止まり、岐阜県の治水工事に身命を賭した薩摩義士の碑に拝礼した。この頃には、暗闇が静寂さを増していた。
 初日の夜は、鹿児島に赴任している私の知人と吉川事務局長の3人で鹿児島料理に舌鼓しながら、楽しい酒を酌み交わした。
 それにしても、都会の真ん中にある銭湯が源泉かけ流しの温泉であることに驚嘆するとともに感動した。実に心地良い湯であった。
 こうして、一日目の巡業・視察を無事終えた。                                                 (つづく)
                                                                記録:塾長 三木一之(森仁平)

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