第6回 令和元年夏季 山坂達者講座の記録
―伊吹山夜間登山・関ケ原探索・醒ヶ井名水探訪―
令和元年8月24日(土)~8月25日(日)
参加者:三木一之(CL)、吉川貴志(SL)、樋浦優人(計3名)
8月24日(土)
16:30JR大阪駅 → 18:26JR近江長岡駅18:35 → 18:48伊吹登山口バス停
19:00登山口出発 → 20:34 5合目 → 21:24 8合目 → 21:53 伊吹山頂上(野宿)
8月25日(日)
4:30起床 → 5:30頂上出発 → 6:35 5合目7:30 → 8:45伊吹登山口バス停9:05 → 9:19JR近江長岡駅9:31 → 9:41JR関ケ原駅 → レンタサイクル10:05 → 10:17関ケ原決戦地 → 10:30石田三成陣跡 → 10:46島津義弘陣跡 → 10:50関ケ原開戦地 → 10:52小西行長陣跡 → 11:13宇喜多秀家陣跡 → 11:25福島正則陣跡 → 11:35不破関関庁跡・兜掛石 → 11:36沓脱石 → 11:40不破関跡 → 11:45不破関資料館12:00 → 12:14大谷吉継陣跡 → 12:21大谷吉継墓 → 12:54徳川家康初陣跡(桃配山) → 13:10レンタサイクル → 13:56JR関ケ原駅 → 14:11JR醒ヶ井駅 → 名水散策 → 14:49加茂神社 → 15:35JR醒ヶ井駅 → 17:07JR新大阪駅
お盆が開けて、2,3日前から朝晩が急に涼しくなった。それでも、伊吹山夜間登山者のヘッドランプは列をなしているだろうと、過去の光景を想像していた。ところが、全く予想外、たまに下山者とすれ違い、上りのランプを探す有様であった。星も月明かりもなく、真っ暗闇の中を自分たちの光りを頼りに登って行く。この空が後に、われわれを苛酷な状況に陥らせることになる。
5合目で少し休憩をして、6合目も難なく通過、ところが、7合目の標識が中々現れない。ひょっとして見落としたのかもしれないと思いながら、8合目を目指していると、漸く7合目に辿り着いた。まだ7合目という落胆が歩速を減速させた。計画では、23時に頂上に到着すればよいのだから、急ぐことはない。そう思うと、8合目までの長さを感じなかった。ここで、一息ついて、頂上へは、30分足らずで到着した。小屋の灯りの中で、人の姿が見える。
われわれは、灯りのある小屋を利用せず、戸締りされた小屋の側で、ザックを降ろし、缶チューハイで乾杯、晩飯を愉しんだ。食事は、つまみとカップ麺だけなので、早々に店じまいと相成った。寝床は、コンクリートの上にテントのグランドシートと銀マットを敷、ツェルトを被り、シュラフカバーにくるまった。寝ていると、雨がポツポツ降り出した。まさかと思いながら、床の硬さに耐えていると、風が増し、雨がザーザーと、身体に容赦なく打ち降る。朝4時頃も雨は降り続けていたので、早々に、この場を離れて、軒下へと避難した。まるで、水溜りの中で一晩過ごした様であった。溺死せず、無事であったことが幸いである。その後、雨は邪々降りとなったので、小雨になるまでその場で待機した。その内、辺りも明るさを取り戻して来た。しかし、御来光を拝むことはなかった。昨夜、暗闇の中で、日本武尊の像を拝んだが、今朝、はっきりとその姿が現れ、再度拝礼をした。
下山は、登山道の状態が悪くなっているので、慎重に降る。時間調整のため、5合目で朝食とカフェで寛いだ。そのとき、グランドシートやツェルト等が天幕となっていた。予定通り、バス停に到着、全員無事伊吹山夜間登山を終了した。
下山後は、バスと電車を乗り継いで、関ケ原へ向かう。広大な関ヶ原の合戦地を電動自転車で駆け巡る。先ずは、石田三成の陣へと、この高台から松尾山を始め、全体を見渡すことができる。成程、陣頭指揮に相応しい場所である。それにしても、島左近が陣の最前線に構えているのは、流石である。「三成に過ぎたるもの二つあり、佐和山の城と島左近」と言われた天下第一等の戦国武将である。その後、歴史に名を刻んだ武将の陣跡を訪ねる。その間、古代史に燦然と輝く「壬申の乱」の重要な合戦場の一つ不破関跡を踏む。資料館に立ち寄ると、当時の戦いを彷彿とさせる。その先、踏切を横切り、大友皇子(弘文天皇)の神社に参拝し、大谷吉継陣跡、同墓所に向かった。合戦当時、前面に林立している木々は存在しなかったであろう。今では、陣跡が林に埋もれて、合戦場を見ることは不可能であるから。天下第一等の知将大谷吉継の生き様を憶うと心は響き涙が溢れる。圧倒的に有利な布陣を敷いた西軍の敗戦を「小早川秀秋の裏切り」一つに求めることは誤りである。関ケ原合戦の言い伝えは、徳川家康の意を酌んだ脚色を取り除く必要がある。関ケ原探索の締め括りは、桃配山である。かつて、大海皇子が壬申の乱において、家来に桃を配ったと記録された小山の先端に、徳川家康は、陣を敷いた。勝者大海皇子にあやかったに違いない。石田三成に始まり、大谷吉継で終り、徳川家康をおまけにする。これが私の「関ケ原探索」のルールである。この広範囲の関ケ原を短時間で回ることを可能にしたのは、馬ならぬ電動自転車を利用したからである。
関ケ原を後に、日本武尊ゆかりの居醒の清水を尋ねる。醒ヶ井駅からほど近いところに透き通った小川の水面に白い花を咲かせている。まるで、川の中に輝く緑の絨毯を敷き詰めて、その上に、白い花をあしらったようである。水の透明感と緑の藻と白い花の清らかさが伝説を甦らせているのだろう。この時期に咲く花を目当てに来る観光客の数は、関ケ原の比ではない。川に沿って、人の行列ができている。加茂神社を参拝し、駅へと戻った。
以上で、夏の山坂達者講座を修了した。
座学だけでは、「自ら反えりみる」ことの真の意味を識り得ない。自然に触れ、その厳しさや雄大さを感得して、初めて識り得ることがある。それは、「自ら反えりみる」ことによって、己の進化へと繋げることこそ実学なのである。
記録 塾長三木一之