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活動の紹介

研修

対馬訪問記録

1.メンバー:塾長 三木一之
       事務局長 吉川貴志
       塾生 樋浦優人
2.訪問日 :平成31年4月27日(土曜日)~平成31年4月30日(火曜日)
3.訪問地 :長崎県対馬
*行程は、別紙に記載。(準備中)

 昨年末に三木塾長と対馬訪問を決めてから5ヶ月が経過し念願の訪問日を迎えた。韓国と49Kmに位置する対馬は、古代から日本と大陸を繋ぐ重要な役割を担った島である。古くは、稲作が日本に伝えられた経路のひとつであり、その後、神功皇后三韓征伐、白村江の戦い、元寇の役、秀吉の朝鮮出兵、朝鮮通信使など数え切れないほどある。今日対馬は、韓国からの旅行客が増加し、土地の買収が行われているとの報道もされている。この状況をマスメディアの情報ではなく、現実の対馬を自らの目で視て体で感じることが訪問の目的である。


対馬空港にて

 平成も残り4日となった4月27日(土)午後12時30分に大阪伊丹空港に集合。伊丹発福岡行きのANA425便は13時45分の出発予定であったが、8分遅れの出発となった。搭乗した航空機はプロペラ機のため、飛行高度はジェット機の約半分の6800Mで飛行しており眼下に見える瀬戸内の景色はいつもとより近いためか、空を飛んでいる感じが強い。福岡到着は、15分遅れの15時20分であったが、乗り継ぐ対馬行きは18時05分発でまだ3時間ある。ここでこの旅の無事を祈り、ビールで乾杯となった。
 乾杯のあとは、空港屋上の展望台でゆっくり航空機の発着を眺めようとしたが、大阪の朝の気温に比べグンと上がっており、日差しも強くなっていたので、搭乗口へ向いそこで時間待ちをすることとした。福岡空港は、滑走路が一本のため特に休日は遅れることが多く、10連休初日の今日もいくつかの便で遅れが出ていた。我々の搭乗するANA4939便も30分近くの遅れで搭乗となり、尚且つ出発機混雑のため離陸が遅れ、対馬到着は40分遅れの19時20分となった。
 対馬空港で予約をしておいたオリックスレンタカーの手続きを行いホテルへ向かった。通常、レンタカーの手続き時に行う車のキズの点検がなく、カーナビ操作など運転席周りの説明もなく「はい、どうぞ」と、乗車するレンタカーを指差された。形だけの点検を省けたのでこの「対馬流」もいい。「対馬の人は、本土の人に較べ、まだ人を信じるところがある」と聞いていたがこういうところに現れているのかと思った。
 この日から3日間宿泊する「ホテル対馬」は、空港から車で15分ほどの厳原の中心部にあり、20時ころにチェックインを行った。チェックインカウンター横のロビー(8名程が座れるソファーが置ける広さのロビー)には、韓国語が飛び交っていた。聞いてはいたがいきなりの洗礼を受ける。
 部屋に荷物を置き(部屋は2名用1室、1名用1室)夕食を摂るために厳原の夜へ。居酒屋を探し歩いている時にすれ違う人は、ほぼ韓国人観光客であった。店は少なく15分くらい探し3件ほど目星を付けその内の1件に入る。川端通りにある「焼き鳥 山ちゃん」。お客さんの8~9割は韓国人であった。我々3名は、畳部屋で他の部屋とは障子と格子の襖で隔てられた部屋であったので気にせず杯を傾けることが出来た。
 焼き鳥の看板をあげているが、お品書きには魚介類がたくさんあり、海鼠(なまこ)の酢のもの、烏賊の一夜干、ヨコワくらいの大きさのあら煮、ほっけ焼きなどを食した。どれも美味しく値段も安いお店であった。
 1日目夜の到着してから3時間という短時間で、対馬の経済は、韓国人で成り立っていることを実感。

居酒屋がある「川端通り」には、「京風お好み」の店があり、この通りに沿って流れる厳原本川は、幅7mほどで、河の両側は4メートルくらいの高さの石垣で作られており、通りには柳が植えられていた。京都の木屋町通りに似た町並みであった。江戸時代に京の都から対馬へ赴任した役人達が京を似せて町造りをしたのではないかと感じた。

 2日目は、6時30分起床。7時からホテル2階の食堂で朝食を食べる。食堂は既に韓国人でほぼ満員。我々以外の宿泊客は全て韓国人のようである。食事は、バイキング方式で3日間同じメニューであったが、キャベツと人参をマヨネーズ風味のドレッシングで作られたサラダ、焼き鯖が美味しく、飽きることがなかったのが救いであった。
 朝食後は、最初の見学地とした「文永の役」の時に元寇が上陸を行った「小茂田浜(こもだはま)」へ向う。
 当時の情景は、浜に900雙の船が押し寄せそれを背景に1000名の元、高麗軍が上陸し、宗助国が80騎で迎え撃った浜である。この光景は想像を絶する。今、その浜に立って、戦い挑む宗助国の気持ちを想う。
 浜の近くには小茂田浜神社があり御参りする。この神社は宗助国を主祭神とし、元寇の役で戦死した将士の霊を祀っている。
 「文永の役」、「弘安の役」では、この小茂田浜だけでなく対馬の各港に元、高麗軍が来襲し男女の別無く殺され、連れ去られたりしたと伝えられている。

 

 小茂田浜を後にし、ホテルに戻り、対馬案内をお願いしておりました西日本新聞社対馬支局の平江記者と落ち合う。平江様は、地元で「朝鮮通信使対馬顕彰事業会」の会長をしておられた小島様に、対馬の歴史案内の依頼を行って頂いていた。小島様とは、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の墓がある場所で待ち合わせをし、まず雨森芳洲の案内をしていただいた。
 案内版のある本堂前から上り坂を歩いて3分程の墓地へ行く。その墓地には、雨森芳洲から後世の方達の墓石がありロノ字型に、各々互いに顔を見合わせて話しを行っているように中心を向いていた。

雨森芳洲について触れておく。
雨森芳洲は、1668年近江の国に生まれ、88歳で対馬にて亡くなる。
・18歳の時に木下順庵の門人となる。同人に新井白石、陶山訥庵(すやまとつあん)。22歳の時に木下順庵の推挙で優秀な人材を探していた対馬藩に仕える。赴任までの2年間に長崎で中国語を学ぶ。
・35歳から2年間は釜山の倭館に滞在し朝鮮語を学ぶ。
・43歳と49歳の時に、江戸まで朝鮮通信使に随行する。
 *芳洲の生き様*
   小島様 :「机上の学びは学でない。学びを現実の世界に活かしてこそ本来の学である。」
   三木塾長:「真の学問とは、人間如何にあるべきかと学ぶことである。」
   (引用:小島様のお話。第24回去稚敬天塾講座。)

 雨森芳洲の本堂から見上げた山の中腹に、「以酊庵(いていあん)」があった場所である。「以酊庵」は、朝鮮との外交文書の書簡翻訳や,使者の接待などを行う場所で、その後焼失し西山寺(せいざんじ)に移設された(後述)。

本堂前の路は芳洲の通勤路であったので、道沿いに芳洲が詠んだ歌の版がある。
芳洲は漢文だけでなく、日本文学にも精通していたことを知ることが窺える。
(当時の官職として、儒学者であっても当然のたしなみであったのかもしれない。)

かめにさす花の香よりも
なさけこそ人の心の匂なりけり
水清き人の心をさめが井や
底のさざれも玉とみるまで
忘れえぬ人の心のふかければ
花もひとしお匂うかとみる
我が恋はふるの社の玉かずら
長かれとのみおもふ心は
年経れど主を忘れぬつばくらめ
ひなを養うもとの古巣に

 雨森芳洲の墓から移動し、途中、桟原(さじきはら)城跡(対馬府中藩3代藩主宗義真が建てた藩主の館跡。今は陸上自衛隊の対馬駐屯地となっている)を経由し、八幡宮神社へ。ここには、雨森芳洲と同じく木下順庵の門人で対馬藩に仕えた陶山訥庵(すやまとつあん)の碑がある。我々は今朝八幡宮神社を訪れていたが、この碑に気付かず素通りをしていた。
 陶山訥庵は、特に農政にすぐれていた。対馬は海と山が近く平地は島全体の10%ほどしかない。この対馬で食料は本土や朝鮮に頼るのではなく、島で自給する必要性を説いた。自給率を高める方策として、農作物を食い荒らす8万頭ともいわれた猪退治に取り組み、9年をかけて冬場の農閑期に行っている。生類哀れみの令が発せられていた時代であり、対馬のために幕府に猪退治を認めさせる決意のほどを窺い知る。(「人よりも猪が大切か!」ということ。)
 最近、「食料自給率」という言葉を聞かなくなった。この視点が抜けてきたように思う。戦後幼い時にもっとも飢餓を味わった団塊の世代の人達は、のんきに老後を過ごすのではなくもっと訴える責務を担っている。
 3箇所目は先ほど話しに出た「以酊庵」が遷った西山寺である。現在は、宿坊となっている。韓国人観光客が庭に入り込み、マナーが悪いことから、宿泊客以外は中に入ることが出来なくなっていた。
 西山寺の目の前には、青年が朝鮮語を学ぶためにつくった施設が残っているが、こちらも見学が出来なくなっていた。この施設は外交上重要な役割を担っている通訳者が、朝鮮の通訳者はある程度の知識を持っていたのに対し、日本の通訳者は朝鮮語を話せる一般人であったことを雨森芳洲が憂い創設したものである。
 4箇所目の萬松院は対馬府中第2代藩主宗義成が、父義智の菩提のために創立。父の法号「萬松院(ばんしょういん)」に因んで寺号とした。本堂には、徳川歴代将軍の位牌が奉られている。この位牌に関連する柳川一件と呼ばれている事件に触れる。この事件は、日本と李氏朝鮮の間で交わされた国書の偽造を巡って、対馬藩主・宗義成と家老・柳川調興(やながわしげおき)が対立した事件である。この時の将軍家光は、対馬藩守におとがめなしとし対馬藩に継続して朝鮮と貿易を行うことを認めた。
 宗義成は徳川への忠誠を誓い東照宮の勧請(かんじょう)決め隣接する場所に東照宮を創設した。そこに位牌が納められていたが、明治維新後に東照宮が廃止され本堂に移されている。
 本堂には、朝鮮国王から寄贈された三具足も展示されており双方の国との繋がりの深さが窺える。
 また、対馬府中藩の家紋は五七桐であるが元は五三桐であったのを由緒ある五七桐に変えている。理由付けとしてこれは対州桐であるとしたのが対馬流である。

 寺院内にある「諫鼓(かんこ)」は、君主に対し諫言しようとする時に打ち鳴らすつづみである。このつづみは一度もなったことがない。理由は「良い政治を行っていたから」と「鳴らしても仕方が無い」の2つの見かたがあるらしい。
宗家の墓所へ行く階段前まで来たがお昼となり、案内をして頂いた平江様と小島様とは萬松院でお別れとなった。

 午後は、日本国の最前線で防衛を担って頂いている陸上自衛隊の対馬駐屯地の自衛隊員の方達を激励するために訪問をさせていただき、忙しいなか丁寧に対応を行って頂いた。
(有難うございます。)

 

 

 


霊峰白獄

 駐屯地を後にし、途中で名物の「対洲(つしゅう)そば」を食べ霊峰白獄(しらたけ)の登山へと向う。途中道に迷い到着が遅れる。登山口の駐車エリアは狭く、既に7台ほど駐車しており我々は道の端へ寄せて駐車をした。
 14時46分出発。行程の3/4位は登山道を歩く。残りは、原生林の中、岩山を登り15時50分に登頂。山頂からの眺めは周囲を一望でき、遠くに韓国の陸地が見えた。日本の国土から外国の陸地を見るのは初めての経験であった。16時に下山を開始し、16時40分に登山口に戻る。途中、幾つかのパーティーと出会ったが(ほぼ日本人である)、マナーの悪さには呆れた。日本人もここまで落ちたのかと思わざるをえない。


万関瀬戸

夕食までは時間があったので、大日本帝国海軍が明治33年に開削した万関瀬戸(まんぜきせと)と明治34年に造られた姫神山(ひめかみやま)砲台跡を見学。国境の島対馬は、国防そして大陸に向かう最前線基地として島の要塞化が進み明治20年から昭和20年までに30箇所を超える砲台が建設されている。
 厳原へ戻り今夜の居酒屋を探す。昨日の「焼き鳥 山ちゃん」へ行くが、空いているのがカウンター席であったので他の店にすることにしたが、それが放浪の始まりでった。数十分探し歩き、最終的にはスナック風の焼鳥屋で軽く食べることになった。
 この放浪で気付いたことであるが、地元の日本人が集まっている店と韓国人が集まっている店が分かれているようであった。比較的値段の安い店に韓国人が多いようである。「NO Korea」と玄関に張り紙をしている店もあったが、店が客層を分けるために店の雰囲気と値段を代えて客層を絞っているのではないかと思えた。対馬がこの環境に適応するように変化している。

 3日目。天気予報の通り朝から雨模様である。今日は、防人の金田城(かねだぎ)を探索し、当時を肌身で感じる機会である。生憎の天気のため訪れる人は我々以外にいない。十分に金田城を楽しむことが出来た。入り口を9時3分に出発、10分ほどで、東南角石塁に到着。初めて見る防人の石塁を見て心に来るものがある。途中砲台跡を通過し10時に山頂へ到着。山頂からの見通しは霧に包まれ何も見えない。


三ノ城戸

山頂から一ノ城戸、二ノ城戸を経由し、海岸線にある大吉戸神社まで下山する。そして三ノ城戸を経由し入り口へ戻る行程となる。これらの石塁は、敵の攻撃を防ぐことや、山の地形を保ち城を守る石塁である。この古代山城の構築は百済から来た技師の指導を受けて築城されている。
 石塁の構築には、国のために防人として遠く関東からこの地へ来た人もおり、現在の日本はこれらの人々が行った国防への勤めにより今の国があることを思い石塁に手を置き感謝をさせていただいた。
(年月を経ており崩れる可能性もあり要注意!)

万葉集から二首。国のことを思いながらも親を思う詩を選出。(防人の詩)
「今日(けふ)よりは 顧みなくて 大君の醜(しこ)の 御楯(みたて)と 出で立つ我れは」
 万葉集巻二十・4373
 (今日からは後ろをふり返ることをせず、天皇の至らぬ守備兵としえ出発するのだ、私は。)

「時々の 花は咲けども 何すれぞ 母とふ花の 咲き出来ずけむ」
 万葉集巻二十・4323
(時節ごとの花は咲くのに、どうして母という花は咲き出さなかったのだろう。)

12時20分に金田城入り口にもどる。
 お昼ご飯は、次の目的地の和田都美(わだつみ)神社へ向う途中のスーパーマーケットのフードコートで、ニューメニューの「オムそば」と、パンにした。この店は昔ながらで形態の店でスーパーの片隅の店舗でおばちゃんが全て賄っており「オムそば」は、関西風の風味でボリュームも満点。インスタ映へする店であった。
 和田都美神社には14時に到着。この神社のは、神代の昔、海神である豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)が当地に宮殿を造り、この和多都美神社が鎮まる地を「夫姫(おとひめ)」と名付けたという。彦火々出見尊(ひこほほでのみこと)(山幸彦)と豊玉姫命(とよたまのひめのみこと)の夫婦神が祀られている。豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊(ほたかみのみこと)、二女神は 豊玉姫命・玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊は失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること3年、豊玉姫命を娶り妻としたと伝わる。(海幸彦、山幸彦の伝説)

 

和田都美神社をあとにし、海神(かいじん)神社へ向う。15時20分到着。この神社の境内は、鬱蒼とした森の木に包まれ、伊勢の倭(やまと)姫(ひめ)神社と同じ「気」が流れていた。森の中の気ではなく神社特有の「気」である。
 雨足が強くなってくるなかを本殿へと足を進める。
社伝には、神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を上県郡峰町に納めたことに由来すると記されている。
 八幡神を祀っていたのは、母子神信仰が基盤にあるからで、太陽によって孕んだ子供を天神として祀る天道信仰の上に、母神(神功皇后)と子神(応神天皇)を祀る八幡信仰が習合していた。母子神信仰は、日本神話と結び付けられて、豊玉姫命と鵜茅草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)(神武天皇の親)とも解釈されている。
 2012年10月に、「銅造如来立像」と「金銅観世音菩薩坐像」が韓国の窃盗団に盗まれる事件があったがこの内の「銅造如来立像」は、この海神神社の宝物館に保管されていた。窃盗団は鍵を破壊し盗むという手口であったことを、この後に訪れた資料館の方にお聞きした。「銅造如来立像」は、3年後に返還されたがもう一つの「金銅観世音菩薩坐像」は、未返還である。
 この後、対馬北端へ行き韓国展望所から、韓国を望む予定であったが雨が強くなってきたので諦め、予定を変更し、峰町歴史民族資料館へ行くことにした。この予定変更で私が見たかったものと出会うことになった。それは縄文時代(約3000年前)の黒曜石で出来た鏃(やじり)であった。しかし、この資料館ではもっと壮大な歴史に触れることが出来た。峰町一帯からは、縄文時代、弥生時代の貝塚、土器、釣り針など多数が出土しており、縄文と弥生という古代日本の成り立ちをこの一箇所で見ることが出来た。奇しくも午前中、金田城を巡っているときに三木塾長と縄文から弥生へどのように変わったのかの話をしており、「米つくりの民族である弥生人が日本に来たことで文化が単純に入れ替わるのか」との話をしていた。これを考えるヒントがこの峰町にあるように思った。対馬には、厳原の歴史民族資料館を中心とし、他に峰町歴史民族資料館や上対馬町歴史民俗資料室(上対馬総合センター内)、豊玉町郷土館があり、各々特徴のある出土品の展示を行っている。対馬は古代史跡の宝庫である。
 予定変更により島北部にある対馬の温泉入浴を諦めていたが、峰町を走行中に「ほたるの湯」の看板が目に入った。偶然温泉を見つけ対馬滞在も3日目で、体が湯船を欲しており体を休める機会を得た。
 この後は一路厳原のホテルを目指した。この夜は、1日目と同じ川端通りにある「焼き鳥 山ちゃん」へ行き、今回は座敷が空いていたのでここで対馬最後の夕食となった。

 最終日の4日目。午前中は、龍良(たてら)山を散策する予定である。天候が気になっていたが雨はほぼ止んでおり支障はなさそうであったので、ホテルをチェックアウトし、登山口へ向う。9時前に到着し林道脇に駐車し登山道に入る。
 龍良(たてら)山は、日本では数少ない古代原生林である。白獄でも原生林を歩いたのであるが、ここは、まったく様相が違っていた。龍良山は、対馬独自の天道信仰の聖地として立ち入りが禁じられ、千古斧の入ったことのない原始の照葉樹林として、国の天然記念物に指定されている。森の平均樹齢は200年で、スダジイ・イスノキなど、他の地域では見ることのできない巨大な姿を見ることが出来た。ゆっくりと楽しみ11時に登山口へ戻る。
 龍良山の原生樹林や樹林に漂う気は写真や言葉で表現できないものであった。
 厳原へ戻り昼食を摂った後に、1日目に行くことが出来なかった萬松院の御墓所を訪れる。墓所は日本三大墓所と言われているおり敷地の大きさだけでなく宗家の歴史を感じる場所であった。以外だったのは、宗家で対馬府中初代藩主である宗義智の墓石が小ぶりであったことである。その時々の藩の財政事情が影響しているのであろうか。

 萬松院が対馬訪問の最終地となり対馬空港へ向う。早い目に対馬空港に着いたが、福岡へのANA4938便の出発時刻は1時間40分の遅れとなった。
 この遅れにより我々は対馬空港で歴史的な時間を過ごすことになった。平成から令和に遷る時である。「退位礼正殿の儀」がテレビ放映されており、上皇様の「最後のお言葉」を拝聴させていただいた。その言葉には国民に対する上皇様の想いが込められているのを感じた。そしてご退出される時の御姿は、一生忘れることが出来ない。我々がこの瞬間を対馬で迎えたことに何か意味があるように思っている。
 対馬空港出発が遅れたため、福岡空港での乗り継ぎの時間が15分となり、あわただしく伊丹空港行きのANA430便に搭乗した。伊丹空港では空港制限時間の21時直前に着陸し対馬訪問を無事に終えることが出来た。

 4日間対馬を訪れた素直な感想は、対馬の韓国人の観光客が云々ではなくその言葉を発する前に、日本人が行かないことがそもそもの問題であると言うべきである。昨今、「地政学」という言葉が頻繁に出るようになってきたが、将に日本の喉仏にささる朝鮮半島に対峙する対馬の重要性を再認識する時である。(国政の皆さん!)
 対馬に現存する古代からの史跡に触れて歴史を認識することが出来た。今後の日本の有るべき方向性を考えるきっかけの一つとなった。

記録者:去稚敬天塾 事務局長
 吉川貴志

(参考文献)
小茂田浜神社 御由緒書
和多都美神社 御由緒書
海神神社 御由緒書
新日本古典文学大系4 萬葉集4(岩波書店)

活動の紹介