第二十三回講座 第二部 真田信繁(幸村)に見る光彩
難波市民学習センター OCATビル4階 第4会議室
2019年3月16日 18時30分~21時00分
講師:事務局長 吉川貴志
真田信繁の武士道とは何であったのか。真田家の観点から大坂冬の陣、大阪夏の陣で豊臣方の家臣として徳川と戦うに至る経緯から探る。講座の前半は、「武士道」についてその変遷をたどる。
1. 武士道の根底にあるもの。
武士道は辺鄙(あずま)の風土を母、もののふの武勇(たけき)職(つかさ)の心を父として形成された。
武士は農村出でありその心構えも、質素倹約、質実剛健である。
2.戦国時代までの武士は、多かれ少なかれ現実主義者であり、最重要だった概念の一つは名誉であり、そのためには死が不可避であるような行為にも身を投じることであった。
そしてもう一つの概念は勝つこと。朝倉 宗滴(そうてき)(教景(のりかげ))(1477年生誕)の言葉にそれを見る。
「武将は、犬ともいえ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」。
3.「日本精神」の究極が武士道である。
時代時代で変遷し発展する「表面の現象に於ける日本精神」とは別に、日本の国家と歴史を貫く、一貫した「日本精神」が存在する。それは、忠と孝が一致する「忠孝の精神(皇国の精神)」、死を恐れぬ「尚武の気性」、その両者が日本精神の「中核」である。
武士道と日本精神は同一ではなく、「日本精神の長所が最もよく発揮せられたもの」が武士道である。
講座の後半は、真田信繁の「武士道」を探る。
1. 信繁の祖父幸隆は、前当主が武田信虎(信玄の父)の侵攻を受け所領を失った後に当主となり、上杉憲政(上杉謙信の義父)を頼った。しかし上杉家では支援を得られなかったため、幸隆は、武田家の当主となった武田信玄が東信濃方面の制圧に乗り出し人材を集めていたことで武田家の家臣となる。この時の領地の地名から真田を名乗ることになる。
2. 真田家の当主となった信繁の父昌幸は、戦国時代の強大な勢力から真田家を守るために、武田家→織田家→北条家→徳川家→上杉家、と臣従する相手を変えていった。最終的には、豊臣家と手を結ぶことになるがその条件として豊臣家に信繁を人質として差し出すことであった。人質となった信繁であったが、当時の秀吉配下の諸将、武将と知り合い、戦法などを学ぶ機会を得ることになる。
3. 関が原の戦いで豊臣側が敗れ、豊臣側であった真田家に対し、家康は、信之(信繁の兄)に昌幸、信繁の斬首を命じる。信之は舅の本多忠勝などに家康への取り成しを依頼し、2人は九度山に蟄居となる。
昌幸は九度山で、いずれ近いうちに徳川と豊臣は合戦になることを予測し、その時に豊臣から参画の依頼があるとし、家康打倒の策を信繁と話しをしていたとされる。【武将感状記】
信繁の義は、九度山での昌幸と暮らし、父の想いを達成することにあったと思われ、唯ひたすらこの時を待っていた。その目的のためにこの15年間、父から戦法を学び、体力を保ち続ける。
そして、秀頼の側近の大野治長から徳川と戦うために参画して欲しいとの口上を受け、冬の陣、夏の陣を戦い抜く。家康の首とりを目指し、後一歩のところまで迫ったが、多勢に無勢。ついに力尽き死した。
当時の情勢は徳川有利であったが信繁は、家康さえ倒せば世の中がどう動くか分からない。それにかけたのではないか。それは、真田家や昌幸の家康へ恨みを果たすための武士としての忠義であったと推察する。