第二十八回講座 第二部 浪人儒者 梅田雲浜 -その純一な志-
大阪市立総合生涯学習センター 大阪駅前第2ビル5階 第3会議室
2019年8月17日 13時00分~14時00分
講師:事務局長 吉川貴志
梅田雲浜は、幕末の小浜藩(現福井県小浜市)に生まれ、藩の学問となっている闇斎学、崎門学を8歳から学んだ。藩校の順造館に始まり、京の望楠軒(若林強斎が創設)、江戸の山口菅山(かんざん)に学ぶ。
帰京後、27歳で大津の上原立斎(崎門学)が行う塾の塾監となる。京都へ戻ろうとした雲浜は、上原に「湖南塾」開校を勧められ開講する。この塾の目的は、「生活のために学問を売るのではなく、国家有為の人物を養成する」こととした。この塾は、みだりに入門を許さず、厳格であったので怠け者は辞めてゆき、塾生の集まりは芳しくなかった。いつの時代でも同じである。
雲浜は、忠義を重んじその対象は「皇室」と「藩主」であった。
雲浜は何事も上様の思し召しに従わねばならないという考えを持っていた。
ある時に青蓮院の宮に謁して、上様の御思し召しを伺うと、「上様は攘夷の御思召しに在らせられる。」とのことであった。この上様の御思召しを賜わって、国家の爲、攘夷に尽力しなければならないと決心し、率先して勤王の大儀を唱え、各藩の志士を鼓舞して、維新の大業を成就する気運に至らしめることが勤めであるとの持説を益々固くした。
そして、雲浜の藩に対しての思いは深く、しかし厳しいものであった。(酒井家は徳川家に恩があり幕府側についていた。)
・藩へ尊王を提言。その元は、光圀公がいった「自分(光圀)は天皇の臣下であって将軍家の家臣ではない。」である。
・日本海からの侵攻から京を守るために小浜藩へ海防論を提言。
(これらの提言により藩籍を剥奪される。38歳)
・京を管理する幕府の所司代になることは、「反尊王となる」と藩主へ直訴を行う。
このように、基本は勤王である。
藩籍を剥奪され浪人となった雲浜は、欧米の列強から日本を守るために幾つかの計画を練り実行していく。以下にその一部を掲載する。
・京の皇室の守護。
-十津川の郷士を育て朝廷を護る親兵とする。(十津川は、鎌倉時代から皇室と関りがある。)
-海防論を近隣の藩に説く。
大阪湾の守り:月性を紀州藩へ向わせ海防論を説く。
日本海の守り:小浜藩へ海防の提言を続ける。
・尊王攘夷の中心と動く藩として相応しいのは、水戸学の水戸藩でしかないため水戸藩を説得する。
・勤王の家柄で外様の毛利家が朝廷の味方になってもらうのが必要と考える。
長州と浪速で物産交易を行いこれを隠れ蓑とし志士同士の気脈を深めることを勧める。主目的は、藩財政を豊かにし、藩も人もしかるべき時に備えることである。
これらが、幕末志士達の指針となったと私は考える。