第二十六回講座 蒙古来襲 - いかに侵略を防いだか -
大阪市立阿倍野市民学習センター あべのベルタ3階 第2会議室
2019年6月15日 13時30分~16時30分
講師:事務局長 吉川貴志
第二十四回の講座にて「元寇」に関して概略を行ったが、今回は元寇来襲に対して、鎌倉幕府はどのような対策を講じていたのか。そして元の侵略を許さなかった理由は何であったのかを見て行きたい。
元寇最初の「文永の役」1274年(文永11年)の時、鎌倉幕府の執権の座に就いていたのは、北条時宗であり18歳で執権となって6年後であった。元からは詔書が届き、侵攻への危機感を抱いていた。その為に行ったことは、
・御家人を九州へ向わせるための「御教書(みきょうしょ)」(命令文書)を出す。
・この時代、まだ豪族が力を持っている地域が多あり、鎌倉幕府の指揮下に置く政策を行う。
・北条の側近を九州へ向わせ命令系統を整備する。
などであった。
1回目「文永の役」では、元・高麗の連合軍は博多湾岸に上陸をしたがそこで食い止め、翌朝強風が吹き荒れ元、高麗の艦船の大半は破損、沈没し撤退する。
この来襲を踏まえて幕府は山口から九州北部に石築地(いしついじ)という堤などを構築し次の来襲に備えた。
また、戦い方も一騎で立ち向かうのではなく、集団で戦う方法に代えている。
2回目の来襲の「弘安の役」では、日本側は積極的に攻撃を行い今回も元、高麗、宋の連合軍を食い止め、その最中に来襲した台風により、またもや高麗の艦船の大半は破損、沈没し撤退する。
強大な力を持つ元に日本はなぜ侵略されなかったのか。私は以下のことが重なり国が守られたと考える。
1.元と高麗の連合軍であったため指揮命令が行き届かない状況であった。(元と高麗の複数系統があった。)
2.騎馬民族の元軍は、海戦に習熟していなく、高麗、宋軍に頼る必要があった。
3.財政的に苦しい豪族が鎌倉幕府の指揮下に入り恩賞を得るために力を尽くした。
4.高麗が、元の朝貢国となった後もこれを是としない武人達による三別抄の蜂起があり、元がこれに対処することによる日本来襲の時期が遅れ日本側は準備期間を長く持つことに繋がった。