令和5年度講座概要 吉川事務局長
令和5年12月16日
斎藤道三と蒲生氏郷、戦国の世を活きる
応仁の乱のころから世の統治が乱れはじめ戦国の時代へと繋がっていく。群雄割拠する戦国時代の前半を活きた斎藤道三は、家系が定かでない一介の武士から西村家、長井家、斎藤家を乗っ取り、美濃の守護である土岐氏当主を追い出し美濃の地を治め、戦国大名となる。「下剋上」を成し遂げたが年既に59歳となり歳には抗えない。嫡男義龍に家督を譲る。2年後の父子の戦いで義龍は父道三を討ち殺し美濃の城主となるが33歳で亡くなり、後を継いだ嫡男は織田信長に敗れる。戦国大名道三が築いた斎藤家は美濃の地を治めるに留まった。(*)
戦国時代の後半を活きた蒲生氏郷。系図では氏郷の11代前に関東地方を治めていた藤原氏が近江の蒲生に移り蒲生姓を名乗り、その後この地を治めていた。氏郷が12歳の時に蒲生家は織田(信長)と和睦をし、人質として氏郷は岐阜城へ連れていかれるが信長は彼の気丈夫に惚れ込み小姓とし、文武を教え込む。氏郷の土台を形成する時期となった。
氏郷は14歳の初陣で敵将の首を討ち取り以後信長のもとで各地の戦いに参戦し手柄をたてる。27歳の時に信長が亡くなり、その後豊臣秀吉に付く。秀吉配下でも主要な戦で勝ちを収め、秀吉の命令により松阪や会津へ国替し、朝鮮出陣の為に九州へ呼ばれる。信長から武将としての心得、城下を創り上げる術を学び、秀吉配下でそれを実践の場で遺憾なく発揮したが、その実力は秀吉を恐れさせ要衝の地へ数回国替が命ぜられたのである。氏郷が40歳で亡くなった死因は秀吉が毒殺を命じたとも言われている。
下剋上で美濃を手中にした道三への評価。また、氏郷のように文武に秀でていても世にあまり知られてない武士達。勝者の歴史を現わしている。
(*)戦国大名までの過程で道三の父が関わっていたことが現在定説とされている。
事務局長 吉川貴志