令和6年度講座概要とまとめ
令和6年2月17日
宮本武蔵 「五輪書に学ぶ人の道」 (講師:樋浦塾生)
宮本武蔵と聞いて思い浮かべるのは、連戦連勝、無敗の最強、ではないだろうか?実際にそうであるが、宮本武蔵はただ武の才があったからそうなったわけではない。その裏には、絶対に勝つという強い執念、努力、そして、緻密な計算があったからである。有名な佐々木小次郎との一戦、武蔵は小次郎より長い武器を用いて勝利している。二刀流で有名だが、武蔵は相手に合わせて様々な武器を使いこなせるように鍛錬している。さらに、わざと遅れてくることで、相手の心理を揺さぶる、心理戦も持ち掛けている。また、武蔵は武の鍛錬以外にも水墨画など、芸の道も極めている。最近は娯楽が多い世の中だが、何事にも真剣に向き合い学ぶ姿勢があれば、どんなことからも学ぶことができる。反対に、何も考えずに向き合うと、何も得ることはできない。朝鍛夕錬、1日1日を真剣に生きる。
令和6年3月16日
韓非子を学ばずして論語を語るなかれ! (講師:三木塾長)
韓非子(古代中国戦国七雄の韓の「非」、子は尊称)は、孔子等儒家に対して、法家と称され、儒学が君子の学であり、理想を求めたものに対して、韓非子の学は、極めて現実的な理論である。韓非子は、理論に長けていたが、弁舌能力は低かったため、秦の始皇帝の期待と落胆を惹起させ、不遇に終わった。
時代の変化について、「歴史を動かす根源的力は、古代は『徳』、中世は『智』、現代は『力』である。」(韓非子の帝王学より)と分析しており、現代社会においても、正に、『力』によって、人々は行動する。古代中国の戦国時代に生きた韓非子が見た現実社会と現代の世界情勢との間にどれほどの差があるというのか。今なお、「大国支配主義の悪なる正義」が世界の人々を支配している。
「韓非子が希求してやまないのは、『法』による人間の欲望の制御であり、信賞必罰の厳正な統治方法のすすめ、完璧な法治国家の実現、そこには、道徳と政治とをはっきり区別した秩序観がある。」(韓非子の帝王学より)ところで、古代中国思想において、すでに信賞必罰を説いていたのは、墨子であり、『徳』を尊重しつつ、現実と正面から向き合った思想家・活動家である。(第42回講座 墨子に学ぶ為政者の愚策)では、『法』とは何か。「法の理念は平和である。(法学者末川博)」しかし、残念ながら、「人は最も愚かな動物であり、矛盾の動物である」から、『法』を歪めること少なからず。それ故に、韓非子が切望した世にならない。
『法』は、『道徳』の延長に在って、これを社会規範としたものである。故に、『道徳』を学ばずして、『法』を識ることはできない。『道徳』とは、「人の道、人の基礎」である。これが私の根本思想。
令和6年4月20日
陽明学の真髄・伝習録 (講師:三木塾長)
伝習録は、中国・明の儒学者王陽明が弟子に語ったことを記録した書である。
「知行合一」とは、知ることと行うことは、一であり、行ってこそ初めて知ったことになる意。知識は道具であり、その道具を使えなければ意味がない。また、「致良知」の良知は、是非善悪を知ることであり、人が生まれながらにして持ち、外に求める必要はない。天理そのもの「良知を致すこと」ができれば、誰でも聖人になれる。(新書漢文大系22・伝習録より)
陽明は、弟子との問答の中で、善悪を花と雑草に例え、善悪の判断が主観によることの過ちを説いている。善悪の本質を鋭く捉えている。
明の時代になると、儒学、とりわけ朱子学において、科挙(出世のための試験)の学となり、形骸化していた。王陽明は、これが弊害となって、世を乱していることに批判し、「陽明学」を打ち立てた。陽明は、学者であり、戦略戦術を用いる軍人でもあった。それ故に、苛酷な環境に身を置き、現実に則った学問を行っており、戦場で負った傷がもとで亡くなっている。わが国の哲学者三木清は、「戦場では、哲学は何の役にも立たなかった。」と述べている。
尚、王陽明については、安岡正篤著「王陽明研究」が参考になる。
令和6年5月25日
人の一生、易経で始まり易経で終わる (講師:三木塾長)
五十にして以て易を学べば、以て大過無かる可し。(論語・述而)
「易」は、陰陽の消長から説き及んで、人生万事の解釈を試みたものであるから、これを学べば大過がなかろうというのである。(諸橋轍次著論語の講義)
孔子の最大の功績は、「易」を学問として確立したこと、と言われている。その本文の意義を解説する十翼という十篇の書物を編纂したことにある。
易経には、多くの取り決め(公式)があり、文字・数字を覚えるだけでも一苦労であり、内容を把握するには、相当の年月を要する。これを熟知する頃には、蓮の花が脳に咲き始める。
易の根本思想は、「一陰し一陽して、交互に往来流行して変化の窮まらないはたらき、これを易の理、即ち天地の道という。この道のはたらきを、よく継承して発展せしめるのが、人としての至純の善であり、更によく成就して完成するのが、人としての本然の性である。(易経・繫辞上伝・新釈漢文大系)」如何にも孔子らしい解説である。これを顕しているものに、『陰陽相対(待)性原理』がある。分化発展と統一含蓄を繰り返す。これを修得すれば、迷いなき人生を送ることができると考えられる。
易は、無限の創造変化。易に重要な三義がある。易簡(いかん)、變易(へんえき)、不易(ふえき)である。
「易簡にして天下の理得(りう)」(繫辞上)(物事を複雑に考えず、また困難なものとしても考えず、平易簡単、単刀直入に直視するとき、天下の真理をつかむことができる。)(諸橋轍次著中国古典名言事典)
不変があって初めて変わる。 易(かわ)らぬものなくして、易ることはない。
本講座は、易経のルール説明に留まり、その扉を開けたに過ぎず、後に、本題へと訪問することになる。
令和6年6月15日
大塩平八郎と陽明学 (講師:吉川局長)
江戸末期は幕府の体制が崩れ多くの藩では、撫育すべき農民への荷重貢租、これによる貧窮化と農村の荒廃、上層支配階級の豪奢な享楽生活、政商、株仲間商人の利潤独占とこれによる物価高騰、そして役人は町人と気脈を通じて私腹を肥やしており、例にもれず大坂も同様であった。大塩平八郎はこの時代に大坂町奉行組与力を代々務める家に生まれその職を受け継ぎ14歳で与力見習いとして出仕し25歳で与力となる。独学で儒学、特に朱子学、陽明学を学んだ大塩平八郎は、この社会的矛盾に満ちた幕藩体制に耐えられなかった。
大塩平八郎は、自ら学んだ学問を農民から藩の役人まで垣根無く教える「洗心洞」を開塾し、著書「洗心洞劄記」を著わし、理想としている徳川家康が治めていた時代となるべく与力職を退いた後もその意思は変わらず藩への働きかけを続けていた。しかし藩の体制は変わらず「天に変わって平八郎が誅殺する」と意を決し、武士、農民(富農と貧農)、都市民、部落民など総勢約750名による「大塩平八郎の乱」を起こすが、密告や離反により半日で乱は収束する。大塩平八郎と養嫡子格之助はその40日後に自ら爆死する。
なお、明治初期に大塩平八郎は社会主義実行者と見られ、大塩平八郎が陽明学を学んでいたため反乱を起こしたとし、陽明学は反乱の哲学とされていた。
令和6年7月20日
河合継之助 ~避けられぬ戦い~ (講師:樋浦塾生)
幕末の越後長岡藩の風雲児、河井継之助。当時は藩がお金を稼ぐということはしなかったのだが、河合継之助は商売の才で貧しかった藩を一気に立て直した。いつの時代も改革とは忌み嫌われるものである。ITの世界でも、昔からやってきたスタイルを変更するのは難しい。知らないことにはリスクが伴い、失敗した時の責任を取らなければならない。それならば、今まで通り、保守的に立ち回ろうとする会社が多い。しかし、時代や人は変化する。それに合わせて変えていかなければニーズを満たすことができない。これは政治や法律も同じだ。河合継之助は戊辰戦争で忠義を貫き命を落とす。もし自由に出来ていたのであれば、商人として大成功を収めたであろう。生まれた時代が変われば、その人の生き方も変わる。しかし、どんな時代も人の基礎は変わらない。先哲に人間の基礎を学ぶことに意義がある。
令和6年10月19日
宋名臣言行録を読み解く ~「宋名臣言行録」と「戦国策」から学ぶ「治世」と「乱世」の学問~ (講師:三木塾長)
『宋名臣言行録』は、中国宋の時代に活躍した皇帝、官僚や軍人の言行録である。編集したのは、朱子であるが、拙作だと些か評判が悪かった。しかしながら、今に伝わる言葉がある。
「士たる者は、天下の憂(くるし)みに先んじて憂み、天下の楽しみに後れて楽しむべきである。先憂後楽」これから、東京後楽園球場、岡山の後楽園の名称が生まれた。 「君臣水魚の交わり」等
橋本左内が、安政の大獄で牢獄にいた時、読んでいた司馬光の著書「資治通鑑(しじつがん)」を命名したのは、宋名臣言行録に登場する皇帝神宗である。「治世に資(やく)だつ、鑑(かがみ)としての通史」(天子が読むべき歴史書)奥深い書籍名である。宋名臣言行録は、明治天皇の愛読書でもあった。明治天皇は、西洋文化に傾倒していた伊藤博文を相手に、この書を読み聞かせていたが、伊藤博文の反応は芳しくなく、些かご不満であった。そこで、伊藤博文は、この書を懸命に勉強して、明治天皇のお相手をした。伊藤博文の奮闘ぶりが目に浮かぶ。
『戦国策』は、治世の宋から遡って、戦国七雄の時代(秦の始皇帝が統一する前)、乱世を駆け抜けた者の言論と権謀術数の記録である。
「国を富ませたい者は、その土地を広めることに努め、兵を強くしたい者は、その民を富ますことに努め、王者になりたい者は、その徳を広く施すことに努める。」(富国強兵) 王者と覇者の違い。徳治主義。国の強弱は、土地の大小ではなく、人材の多少によってこそ決すべき。
「百里の道を行く者は、九十里を半ばとする。」 「災いを転じて福とし、失敗を機縁にして成功を導く。」 蛇足、虎の威を借りる狐、漁夫の利等今も使われている言葉の語源がある。
治世の教えと乱世の教え、それぞれ時代背景の違いを観ることができる。
参考文献 中国の古典/宋名臣言行録/梅原郁編訳/講談社/昭和61年9月18日発行
戦国策(新版)/新書漢文大系/林秀一・福田襄之介著/明治書院/平成14年7月19日発行
令和6年11月16日
國学者の異端児 平田篤胤 ~その発想は、國学にとどまらず~ (講師:吉川局長)
國学は、江戸時代に『古事記』や『万葉集』など日本の古典を研究し、儒教・仏教が日本に影響を与える前の日本人独自の民族精神を明らかにしようとした学問。
下記の4名は國学四大人と呼ばれている。(※)
・荷田 春満(あずままろ)
『万葉集』『古事記』『日本書紀』や大嘗会の研究の基礎を築く。復古神道を提唱する。幕府・諸藩の学校教育が儒教中心主義であることを批判し、国学を中心とした学校の設立を幕府に進言する。
・賀茂真淵
君臣の関係を重視する朱子学の道徳を作為的とし、日本の古典にみられる古代日本人の精神性の純粋な表れを作為のない自然の心情・態度とし人間本来のあるべき姿であるとする。
・本居 宣長
『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして『古事記』の注釈書『古事記伝』を著す。また、神道は古事記などの神典を実証的・文献的に研究して明らかにするべきであるとし、儒教仏教流の「漢意(からごころ)」を用いて神典を解釈する従来の仏家神道や儒家神道を強く批判する。
・平田 篤胤
前述の3名と異なり学問の範囲は広く、蘭学(医学)、対ロシア(外交)、インド仏教、中国仏教、老子、儒教、ヨーロッパの学問や思想、日本においては『記紀』、『古語拾遺』、『祝詞』、『新撰姓氏録』、『出雲国風土記』といった古文献資料類までも幅広く学んでいる。
古学は古を明らかにする学問でありその始めは如何に、其の有様はどのようであったかという事を、知らべられる限り知らべ尽し、天地開闢から上代の事実をあきらかにしようとした。
日本は天地のはじまり以来の古伝説が詳しく伝わっているが、外国は神が生んだものという伝説がなく、潮沫(しおあわ)が凝り集まってできたものであるとする。仏教、儒学、蘭学の考えは全て神道が包括しているとし、神道は世界宗教であるとする。あまりにも突出した考えであるため当時学者と呼ばれた人達にその考えを受け入れられなかった。しかし日本の歴史に影響を与えた人物として外すことが出来ない一人である。
※荷田春満の30年前に生まれた契沖は徳川光圀から委嘱を受け『万葉集』の注釈書を著わす。この時にまとめた「万葉仮名」表記法解析資料は、後に続く國学書の古文解析に役立つ。
令和6年12月22日
諦めない心 ~北条時行に学ぶ死に様と生き様~ (講師:樋浦塾生)
松井優征の連載漫画、「逃げ上手の若君」で脚光を浴びた、北条時行。若干7歳にして、天下に名を轟かせた、世界的に見ても類を見ない人物の一人である。平安、鎌倉の世は、歴史の授業でしか知らない人が多いのではないだろうか?実は、殺伐としていて、争いが絶えない、まるで、「北斗の拳」のような世界だったのである。150年続いた鎌倉時代は、足利尊氏の手によって、一瞬で滅ぼされた。鎌倉を取り戻すために立ち上がった北条時行、しかし、7歳に何かできる?真に時代を動かしたのは、諏訪や北条の与党である。史実は逃げ上手ではなく、逃がされ上手の若君であった。しかし、自分の為に命を使うものたちを見て、7歳であっても何も思わないはずはない。育ての親、諏訪頼重が自害したことで、時行の復讐心はさらに増大したであろう。25歳で非業の死を遂げることになるが、生まれてから死ぬまで戦い続けた時行の人生には学ぶものが沢山ある。
争いというものは、いつの時代も人間の欲、嫉妬、不満、怒りという人間の感情から起きるものだ。上の人間がこの感情に取りつかれて動いてはいけない。ロシアのプーチンがいい例である。上の人間が人としての基礎をしっかり身に付け、国民全体も賢くなっていかないと、これからの日本は良くならない。今こそ、鎌倉時代、延いては歴史に学ぶ必要があるだろう。
まとめ
塾長 三木一之
【八年目の活動】
本年は、漸く新型コロナウイルス過が小康状態となり、8月は、敦賀湾の水島で夏季合宿、9月は、穂高涸沢で秋季合宿(山坂達者講座)、1月~7月・10月~12月は、座学と一年を通じてフルに活動することができ、充実した年になった。
当塾開講以来、海での合宿は初めて、昨年私個人で水島に訪れ、その美しさに感激し、この企画をすることになった。9月の登山は、悪天候のため、涸沢止まりであったが、厳しい状況に対処する術を学んだ。若い塾生には、大きな財産になったと思う。
昨今、政治においても、大衆においても、SNSによる秩序の乱れが甚だしく、何でもありの様相を呈している。無法化は論外であるが、法律に触れるや否やと論議が続く。法は、何のためにあるのか。社会秩序を乱すためにあるのではない。先人たちが培ってきたわが国の歴史秩序を守ることは、次の世代へと継ぐ、われわれ現代人の務めであることを忘れてはならない。法律を生業としている者はもちろん、国民全員がこのことを肝に銘じなければならない。そのためには、「人の基礎」をつくる真の学問が不可欠である。
当塾は、真の学問を実践躬行している学び舎である。
世の中に溢れんばかり心なき人の声より先哲に聴く
塾生 樋浦優人
2024年も様々なことを学ぶことができた。夏合宿では福井県の海に行き、電車ですぐに行けるところにこんな綺麗な場所があるなんて、と感動した。毎年恒例の登山では、一度行ってみたかった念願の穂高に行くことができたが、生憎の雨。自然に自分の都合を押し付けることはおこがましい。雨が降らないと、今当たり前のように食べている野菜やお米も育たない。残念な気持ちも持ちながら、自然の恵みに対する感謝も忘れない。しかし、雨だからこそ学べるものがある。どのくらい雨が降っていればいけるのか?雨の日はどのような装備がいいのか?など、雨を経験することで、また一歩、成長できるのだ。そして、次に晴れた時、何倍もの感動を得ることができる。その翌月に行った立山では、快晴の中、登山を楽しむことができた。人生、良い時もあれば、悪い時もある。悪い時を如何に楽しむかで自分の糧にすることができるのだと思う。2025年も歴史に学び、自然に学び、さらなる成長を目指していく。